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国語授業の目標論

1.はじめに

 僕にとって書くことは、基本的に辛い営みで、体力も精神も消費してしまう。仕事をしながら書くことは、この先もあまり期待できないだろうな、と思っています。毎日の授業準備はもちろんだけど、担任業務と課外授業の準備、そして分掌の仕事をしつつ、国語科のなかでも仕事がある。
 こんな感じで、いまの僕にとっては毎日の仕事をこなすのが精一杯な状況で、読書をする時間や自分の勉強をする時間すら、まともに取ることが難しい。研究論文を書く体力と時間も欲しい。覚悟を決めてこの業界に入ったつもりだけど、やはり実態としては、なかなかハードなところがある。周囲の人は「期待の若手だ!」と言ってくれるけれど、正直なところ組織に全力でコミットする気持ちにはなれないし、情けなさを自分に感じ、いつもニヒリズムに陥っている。周囲に迷惑をかけないように大量に降ってくる仕事を淡々と進めているだけの存在――。
 でもそれで良いのだとも思う。かつて、リオタールは『ポスト・モダンの条件』のなかで、「大きな物語」の凋落を指摘したけれど、まさしくその通りだ。いまの僕は、目の前にいる生徒と、認めてくれる先輩(=小さな物語)のためにだけ、全力で応えていけばいい。賛否はあるかもしれないが、組織の持続性を考えて働くだけの余裕はないし、天邪鬼な僕はそんなことを意識すらしていない。組織のために働きすぎて自分も壊れてしまっては、それこそlose-loseの関係だろう。
 さて、例のごとく前置きが長くなってしまい、僕の悪いところが出てしまっている。そして、何よりここまでの内容は完全に僕の弱点告白であり、「他者」には関係のないことなのだ。前置きを書きながら、はや投げ出したいような気分になっているのを抑えつつ、いまこうしてキーボードを一人叩いているのは、一つの目的があるからに他ならない。それは、国語の授業の省察を書くことにある。自分が辿ってきた軌跡をときどきにでも振り返る営為を怠ってしまえば、自分の経験則でしかものを語れなくなってしまう。国語の授業省察・第二弾と称して、本稿では授業を料理に例えて、振り返ってみたいと思う。第一弾は以下の記事から。

2.授業の目標論

 授業を語る言葉として、「教材をどう料理するか」「生徒の意見をどうさばくか」といった料理の比喩がある。これは、料理人(=授業者)が食材(=教材)をおいしく調理し、それを食べる人(=生徒)が満足するような料理(=授業)を構想する、ということを例えたものだろう。以下ではこの例を三つの観点から再整理し、国語の授業の目標論を考えてみたいと思う。すなわち、①料理するのは誰なのか、②料理とは何か、③全員がおいしいと思う料理はあるか、だ。目標論を検討することは非常に重要で、『国語科教育学研究の成果と展望Ⅲ』(渓水社)や『新たな時代の学びを創る中学校・高等学校国語科教育研究』(東洋館出版社)といった学会刊行の書籍において、目標論が冒頭に位置していることからも明らかだ。

2-1.料理をするのは誰なのか

 料理をする力や技術は、料理人だけではなく、食べる側にも必要なことである。学校を離れたときに生きていく力や技術が必要なのだから、提供されるだけは不十分である。どのような道具をどのような食材に対して使用するのがいいのか、調理法はどれを選ぶのか。そして盛り付け(見せ方)も大切だ。授業者がすべてやってみせるのも参照枠としては必要だが、どこまで一方的に、しかも確実に教え込むのかも考えるべきことの一つ。
 また実際の授業では、授業者とは異なる書き手が書いたテキストを扱う。この場合、授業者はその書き手の書いたテキストが教育的見地によって教材に変換されたものを使いながら、それを吟味する立場にある。逆に言えば、それはすでに調理されたものがどのような過程を経て今の形になっているのかを読み解き、批評をしていくことである、とひとまずは理解できる(教科書がメディアであると言われることの理由)。
 生徒はやがて学校を離れ、様々なテクストを読んでいかなかればならない(テキストとテクストの差異を明確に分けています)。そして、テクストを批評していくための力を授業では身に付けなければならない。それらの力が育成されるはずの授業の場で、授業者がどこまで具体的な支援をしていけるのか。当たり前のことを述べているが、こういった観点が置き去りになっている授業はやはり反省されるべきであると思う。

2-2.料理とは何か

 料理はさまざまな食材、調味料、食器等の総体だ。そして、教材はさまざまな言葉(食材)の集積である。料理の中のひとつひとつの食材と同じように、教材の中のひとつひとつの言葉には、さまざまな経緯や歴史性があって僕たちの目の前に現れる。(1)
 しかし、何を食材(言葉)とするのか、その範囲は自明ではない。たとえば、日本食に慣れた人が食材と見なさないようなものを食材と見なす文化圏がある。何を食材として食べる/食べないのかは、世界を分節するどのような言葉がある/ないのかという、言語論の問題と地続きの関係にある。どのような言葉を発見し、また使っていくのか、その言葉にはどのような奥行きがあるのか。それは、さながら食材を味見し、どのような食材や調味料と組み合わせていけばいいのかを考えるようなものだろう。
 また食材だけではなく、その食材の調理法・加工法にも文化的な慣習がある。食事の作法だって存在する。盛り付けは一種のレトリックであるし、食事の用意される場がきわめて待遇的であることもある。この意味で料理とは一つの固定化されたものではなく、それを食す場(文脈)までを踏まえた動的なプロセスであると言える。ここには、誰と作り、誰のために作り、誰と食べるのかということも含まれるのだろう。

2-3.全員がおいしいと思う料理はあるか

 人には好みがある。料理人が「おいしい」と感じるものをすべての人が「おいしい」と感じるのかは別の問題だ。その教材から分かる考えはもとより、授業者やその教材が前提としている思想や価値観、それらの内容すべてを生徒が消化できるものでもない。
 しかし、教師―生徒という権力の働く教室の場において、生徒は、本当はそう感じていなくても「おいしい」と振る舞うことが求められることもある。拒否して食べなければ、「この味が分からないのか」と迫られることだってある。また、授業者が「おいしい」と感じる、つまり、比較的良いとされる思想や価値観に生徒もまた慣れ親しんでいる場合には、その共感はいっそう強固なものになっていく。強固になればなるほど、「わたしたち」の連帯が強まり、他者の排除が容易かつ無自覚に行われていくのだろう。一方で、おいしいものばかりを食べるわけにはいかない。食べたくなくても食べなければならないものがあるし、栄養が偏ることは望ましくはない。
 教材は何らかの主題(自己と他者、言語論、再帰的近代、科学の功罪など)に対して書き手が発した発話(2)であり、それらを聴き、応答していくことが対話的となるのだろう。主題について書き手の考えが、生徒の考えと鋭く対立することもある。他者の考えは容易には受け入れがたいだろう。しかし、たとえ今の自分には抵抗があったとしても少しずつ受け入れていくこと、一方でそれを食べる人がいるということ(=他者の存在の認知)をどこまで考えていけるかは、非常に大切なことなのではないだろうか。

3.具体例

 話が抽象的になってしまったので、簡単な話を用いて具体化を試みたい。特に、三点目の「全員がおいしいと思う料理はあるか」を前景化して考えてみたいと思う。

 あるところに腕は良いが、貧乏な手品師がいた。手品師はいつか大劇場で自分の手品を披露することを夢見て、日々腕を磨いていた。
 ある日、手品師が道を歩いていると、しょんぼりしている小さな男の子に出会った。声をかけると、お父さんが亡くなった後、お母さんが働きに出たままずっと帰ってこないということだった。そこで、手品師が男の子に手品を見せてあげると、この男の子は大変に喜んだ。「また明日も来てくれるかい」と聞いてくる。手品師は「必ずここに来るよ」と約束して二人は別れた。
 その夜、手品師は友人から電話があった。友人は「明日、大劇場で開催されるショーに出演する予定だった有名な手品師が急病で倒れてしまった。代役が必要で、君を推薦したい」と言う。手品師は悩みに悩んだ。
 大劇場を夢見る手品師にとって、またとないチャンス。しかし、そのためには今夜出発しなければならない。そうなると、あの男の子との約束は守れない。葛藤の末、手品師は大劇場の推薦を断り、男の子との約束を守る選択をした。翌日、たった一人のお客さんを前に素晴らしい手品を披露する手品師の姿があった。

 この話の主題は「約束」にあることは分かるだろう。手品師が子どもとした約束は、誰でも気づくことができる。しかし、ポイントはもう一つの約束が実は存在しているということにある。生徒がみずからの思考で、この観点に気づくことができるか。ここで授業の質は変わってくる。
 普通に授業を進めて「約束はやはり大切である」というように結論を誘導してしまうと、微塵も面白くない授業になってしまう。生徒は教室で求められる、教師の求める「正解」を自然と探す癖が付いている。いわゆる解釈のマスターコード化であり、それをさせないことが腕の見せ所だ。
 授業の目標は、深層的に隠されている約束に気づくことにある。明日同じ場所で手品をするという約束は、誰にでも分かる表面的な約束である。この表面的な約束に注目して授業を進めてしまうと、「大劇場でデビューするチャンスを棒に振るなんて損である」といった損得勘定でものを考えてしまう授業になってしまう。すると、生徒たちは「自分にとって損ではあっても、約束は守るべき」ということが言いたいのだな、と考えてしまい、授業者が喜ぶような読解をしてしまう。それでは読みとしては狭量だ。
 したがって、この文章の場合は、道徳的なミッション――子どもとの約束を守るべきか、という主題に損得勘定という対立要素ではない形の新たなミッションを立案しなければならない。つまり、自分との「約束」という観点を対立要素に入れなければならないのだ。子どもの頃から、手品師になりたくて大劇場で披露するような立派な手品師になりたい、と子どもの頃の自分と約束をしたということに着眼する。この自分との約束と、一回会っただけの子どもとの約束、どちらを取るべきか。このような葛藤を意図的に生じさせ、生徒を宙づりにすることも時として必要なことだ。「約束」という主題を軸に二つのバインド状態を作る。授業者が喜ぶ答えはどちらなのか不明な状態を作り、みずからで思考せざるを得ない状況を演出する。早急に結論を出すことを求めるのではなく、問いを拡散させることも重要だろう。ありきたりな授業にさせないためにも。

4.まとめ

 以上やや雑に、国語の授業を料理に喩えて述べてきた。僕が国語の授業で「他者」の存在を重視しているのも、こうした考えに拠っている。改めて言葉を加えて言い換えてみると、以下のようになるだろう。

  • 授業は、授業者がその腕前を披露する場ではなく、手探りの状態の生徒を見守ったり支援を適切に行ったりする場である。生徒の言葉を奪う場や、社会学や哲学の授業ではない。

  • 言葉は無色透明で自明のものではなく、言葉の原義だけに注意すればいいわけではない。ある場に置かれたときの言葉の多義性、組み合わせや順序を形成する文法、他者との関係を考えることが重要である。

  • 授業者が影響を受けている言説、教材に流れている言説が生徒にどのような影響を及ぼすかを考えておく必要がある。あるいは生徒が無自覚になっている言説を浮き彫りにし、生徒の持つ言説と対峙させることを含めて、授業の中で問うような活動があった方がよい。ここに他者の発見があり、他者との対話の機会がある。

注釈

(1)テクストの歴史性については、ロラン・バルトの論考以降、多数の言及がある。歴史性をテクストの読解に踏まえているものとして、千田洋幸(2020)「告白・教室・権力――『破戒』の構図――」『読むという抗い 小説論の射程』渓水社、pp.96-111などがある。
(2)ミハイル・バフチン(1988)『ことば・対話・テキスト(ミハイル・バフチン著作集8)』新時代社

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