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国語授業の形態論

1.はじめに

 学校現場で盛んにアクティブラーニングの名称があらわれるのは、大学教育の是正策を説いた溝上慎一(2014)の研究(1)に遡る。以降、2016年の中央教育審議会答申では高等学校における講義伝達型授業の問題が槍玉に挙がり、「これまでの授業観」を脱却することが喫緊の課題であるとされた。  
 このような潮流の中で学生生活を送った私は、着任当初とにかくアクティブラーニング型の授業をしようと躍起になっていた。その方が生徒同士で意思疎通が図れるし、そして時には完全に教師など置き去りにして、「主体的・対話的」に授業を構築できると考えていたからである。
 しかし、何かが刷新されるとき、旧来の価値観を下げ、新しいものの価値を高めるといった手法は至る所で使われる。古きを貶め、新しきを称揚するのは人間の常套手段であることは言うまでもない。このように考えると、講義伝達型授業は本当に「悪」としての側面しかないのだろうか。まずは、このあたりから今年度における授業の省察を行ってみたい。

2.流動する主体と客体

 例えば、本を読むことを考えてみる。本を読むことほど、一方的に知識が注入されている時間はない。読者は文章を読んで、そこに書いてあることを受け取る。しかし、読者がいかに本に語りかけようとも、本は書いてある文章以外の言葉を吐露することはない。だが、本を読むことについて、受動的に知識が注入されているだけと非難する人は案外少ないだろう(ショーペンハウエル(2)は痛烈に批判しているが)。
 また、演劇や音楽鑑賞、絵画鑑賞はどうだろうか。舞台を観る人や音楽を聴く人は文字通り「聴衆」である。ただこちらも「聴衆=受動的な客体」と認識する人は少ない。特に演劇に関しては「演者と聴衆」の間にある「主体と客体」の関係は揺らぐことが多い。「演じる主体と演じられる客体」から「観る主体と観られる客体」へと、その対立軸も多様に変化するからである。つまり、「授業をしている教師=主体、授業を聴く生徒=客体」という等式がいつでも成立するわけではない。「授業を聴く生徒=主体、授業を聴かれる教師=客体」という等式が成立することも十分にあり得るのである。
 そして、読書や演劇もそうだが、その中では他者によって未知の世界に飛ばされるという体験をすることができる。自分が観たことのない世界、自分の力だけでは到底考えつくことのなかった言葉や思想、論理――。これらを読書や演劇は見せてくれる。講義伝達型授業も同じことが言えるのではないだろうか。歴史の授業でいえば、古代に起きた事象と現代社会がどう繋がっているのか、どのような共通点や差異があるのか、教科書には書いていない歴史の見方を教えてくれる。小説の授業でいえば、テクスト論、ナラトロジーなど、様々な視点から一つの小説を解釈する術を教えてくれる。数学の授業であれば、より簡潔で本質に拠った美しい解法を教えてくれる。そのような新しい視点や景色を提供するのが講義伝達型授業の特徴であり、良い点であると思われる。話しているのは教師だけであっても、授業を受けている生徒の中では内的なダイナミックスが生じている。新たな視点の獲得があってこそ、アクティブラーニングで質の高い思考ができることに着任当初は気が付かなかった。
 一方で、良質な講義伝達型授業を生徒に提供し続けることの難しさも、嫌と言うほど感じている。綿密な教材研究や授業計画を練り、生徒のニーズにも応えるバランス感覚を持たなければ、ただ生徒が取り残される授業が展開されてしまう。理論を振りかざすだけでは生徒はついてこない。全ての教育が講義伝達型の授業では生徒の主体性を伸ばすことができないのは自明ではあるが、重要なのは、講義伝達型授業とアクティブラーニングの良いところを組み合わせて授業を展開していくことだろう。無用な二項対立は歪みを生むだけで良い授業は生み出せない。「Aはだめで、Bの方がいい」という言説ではなく「Aのこの部分とBのこの部分を組み合わせて新しい価値を生み出そう」という発想をもって授業を展開していきたい。こんな当たり前の確認から教師人生を出発したことに、いささかの情けなさも感じるが、もう少し具体的に国語の授業について振り返ってみたい。

3.実態から見えてきたこと

 国語の授業では、教師が板書し、生徒はその板書をノートに写し論理構成を掴む、という授業展開が一般的であると言われる。そこでは、テクストの論理構成を抽出する方法はどのようなものなのか、生徒は身体を使って模倣していく。よく言われるように、「学ぶ」は「まねぶ」であり、模倣することで技術を習得していく観点に立てば、こうした方法は必須事項だと思われる。そして、その実践の中には「一般的」と一括りにはできない授業者の工夫や支援は当然あるはずで、優れた教育実践が歴史を牽引してきたのは周知の通りである。しかし実際に、こうした「一般的」な国語の授業に批判の目を向け、課題点を言及する論者も少なくない。(3)
国語科教育学研究における説明的文章指導の課題として、他者が抽出した論理をただ受容するだけでは、概念を形成することや自分で論理を抽出する力は養われないというものがある。(4)敷衍して言えば、国語の授業は「どんな能力が身についたか」ではなく「何の文章を読んだか」という方向性で語られる傾向にあるということだ。例えば、生徒は「社会学に関する評論文を読んだ」とは言うが、「社会学に関する評論文を読むことで〇〇という能力を培った」とはあまり言わない。故に、コンピテンシーベースではなく、コンテンツベースに傾斜していると見なされる(しかし国語科の場合、教材に十分な強度がなければ養成される能力も怪しくなる教科性質を孕んでいる)。生徒の様子を観察していると、定期試験の勉強も何となく文章を眺めていたり、授業で扱った問題の解答を暗記していたりすることが非常に多い。それでは、国語の深層に分け入っていく態度は養成されない。
 授業までのプロセスを考えると、教師は授業をするために、何を取り出すか教材研究し、板書案を作成して自分の思考を可視化する。そして、その教材研究のもと、授業という形で自分の思考を、言葉を通じて他者へと伝達する。そのときには、どのように話せば他者に伝わるか、ということも考えながら思考を整理していく。最終的にテストを行うことで、自分の伝達したことを他者が理解しているか確認し、振り返りを行う。この教材研究(インプット)・授業(アウトプット)・振り返りの一連のサイクルを繰り返すことで、教師の論理的思考は洗練され、無駄な情報は削がれていく。
それに対し、授業を聞いている生徒は他者から論理を伝えられるのみであり、その論理を批判的に聴講することはできるかもしれないが、そもそもその論理を抽出する作業を行うことはできない。論理抽出の失敗を経験することもできない。いくら教師が美しい板書案を考えても、それを模倣するだけでは普遍的な力は身に付かないのだろう。
 このように考えると、論理的思考を養うためには、自分で論理を抽出し、可視化、言語化し、アウトプットすることが必要だと分かる。その営みの中で失敗し、教師とともに修正を繰り返していくことで、生徒の思考は一層洗練されていく。新学習指導要領下で、私が現在担当している「現代の国語」の指導事項にも、生徒が身に付けるものとして次のような観点が掲げられている。

文章の種類を踏まえて、内容や構成、論理の展開などについて叙述を基に的確に捉え、要旨や要点を把握すること。(5) 

 ここで重要なのは、「〇〇といった文章の内容や構成を捉えて把握する」という個別の文章に対する目標ではなく、「普遍的な文章の内容や構成を捉えて把握する」ことが目標にされていることである。一つの単元を実践していく中で、生徒は普遍的な能力を身につけなければならない。そのためには教師が「自らで論理を抽出し、整理をする」という営みを授業の中で組織することが必要である。
 それでは、「自らで論理を抽出し、整理をする」という営みを、どのように授業の中で具体化していけば良いだろうか。その出発点を考えるうえで、吉川芳則(2022)の言説を引用する。

自立的な読者になることを実現するには、読み(読解)の方略(目標に向けて意識的に活用される読み方)を習得していることが必要である。どのように読めばよいかわかっている読者は、時間をかけず、的確に文章に向かっていくことができる。内容や表現形式を捉えることだけを指導するのではなく、読みの方略をも指導していくことが、多様化、高度化していく情報社会においては、ますます重要になる。(6)

 吉川の言説に従うならば、初期指導の段階で読解方略を示し、熟練させていくことが一つの方向性となるだろう。そして、それを階梯にして「自らで論理を抽出し、整理をする」ということに繋げていく。読解方略の内実については、ここで深入りはしないが、参考になる書籍についてはすでに多くの蓄積がなされている。(7)
 また、辻村重子(2017)は、授業の導入において、「論証構成図」を提示し、複雑な論理構造を生徒に事前に把握させることで、俯瞰的な読みへの転換を図っている。(8)辻村実践は、中学校におけるものではあるが、論理の筋道をどのように読み取ったかを可視化する読解方略として示唆に富むものであると考える。

4.取り組んでみた実践

 以上の内容を踏まえて、恐縮ではあるが、実際に私が取り組んだ実践を紹介させていただきたい。すなわち、「生徒が自分で板書案を作る」という授業である。年度を2つに区分したとき、前期のうちは私が講義形式で授業を行い、論理の抽出方法、整理の仕方を伝えた。前述の読解方略指導である。後期に入ってからその方略を自分で活用するように発展させていった。
3人1組(程度)になり、それぞれA・B・Cの意味段落に応じて担当を決め、それぞれがその意味段落の板書案を作る。もちろん、最後の意味段落を担当する生徒は、それまでの内容も把握しておかなければならない。板書案が出揃ったところで、それぞれの生徒がグループ内で自分が作成した板書案をもとに授業をしていく。ここで気を付けたのは、聞いている生徒は授業をしている生徒に対して質問をすることである。論理の繋がりや、語句の知識を授業者から引き出すことで、互いに内容理解を深めていくように促した(ただ、質問する力を別で身に付ける必要があると感じた)。意味段落が3つ程度の文章であれば、1時間の授業の中で全員が説明し終える。
以降は、私が講義形式で論理の確認をしていき、その上で批判的な読解を付け加えていく。生徒は私の授業を見たり聞いたりしながら、自分の授業と教師の授業はどの点が違って、どの点が共通しているのか、教師の説明よりも自分の説明の方が端的なのではないか、など、私の授業を相対化しながら自分の板書案・授業を評価していく。私が3時間ほど授業を展開し(内容は生徒が自分で掴んでいるので進度は早い)、最後に振り返りシートを書いて単元を終了するという流れで行った。
 講義伝達型授業の最大の弱点は、授業者が一番学べるということだ。生徒が力を付けるためには、生徒自身が授業をするのが一番早い。しかし、取り組ませて満足するのではなく、教師も授業をすることで、生徒が自分の授業を評価することができる。「自らで論理を抽出し、整理をする」ことを繰り返すことで、様々な論理展開の文章にも対応できる力を養う。そうすれば「○○という文章を読んだ」と矮小化されることなく、授業を改善できるのではないだろうか。

5.評価の主体性

 学校教育の中で、生徒は「評価される客体」であることの方が多い。授業内容の到達度を測るために定期試験を行い、取り組みに対する熱心さを「平常点」という制度を用いて評価する。部活動の成績や進路の考え方など、点数にならない行為に対しても教師や保護者から常に評価されている。いずれにしても、生徒は常に評価される視線を内在化し、その視線の中で学習・生活を送る。それがフーコー的監視(9)であり、学校=監獄と言及されることの所以である。フーコーの理論は、人々の個性それ自体が社会の要請であり、だからこそ生徒の内面が絶えず観察・監視の対象となる理由を明らかにする。その視線の中では「評価する主体」であることの重要性、必要性は忘れ去られていく――。
 もちろん、評価されることも大事なことである。「他者はどういう〈私〉を求めているのか」ということを感じ取り、「他者が求めている〈私〉」に自己を当てはめていく。こうした作業も必要なことだ。しかし、「評価する主体」へと成長するための機会は現在の学校教育の中では乏しい。常に評価されながら、その評価に応えるために学習し、評価に応えるための行動様式を確立する。これでは主体的に行動する力は身につかないのだと思う。主体的に対象を評価してこそ、自立した実存を創造することができるのだろう。
国語の授業で言えば、「他者の文章を評価する」という経験を生徒はあまり持たない。読書感想文や小論文など、自分が書いた文章が教師の手によって、または試験官の手によって評価されることはあるが、誰かの文章を客観的に評価するということは少ない。
 生徒の主体性を取り戻す授業構想は何かできないか。時間に余裕のある時に実践できれば、という程度のものではあるが、ひとつ構想を述べてみたい。
 生徒には400字程度の小論文を書いてもらい、その文章を一度回収し、ランダムに配り直す。それと同時に「評価シート」を配布する。クラスメイトが書いた小論文を読み、評価シートに評価を記すのみである。授業実践としては非常に簡単である。しかし、ただ評価をするだけでは学びにならないので、共通の「評価基準」を設定する必要がある。ここで役に立つのが慶應義塾大学法学部の入試問題、小論文の表紙に書いてある文言である。

読解資料をどの程度理解しているか(理解力)、理解に基づく自己の所見をどのように論理的に構成するか(構成力)、論述の中にどのように個性的・独創的発想が盛り込まれているか(発想力)、表現がどの程度正確かつ豊かであるか(表現力)が評価の対象になる。(10)

 明解な評価基準である。この基準を利用し、課題文付きの小論文を評価する場合は理解・構成・発想・表現の4つの観点で、課題文無しの小論文の際には構成・発想・表現の3つの観点で生徒に評価してもらう。評価シートには必ず評価者の名前を書く。署名をすることによって責任ある評価に繋げるためである。点数をつけると同時に、なぜその点数にしたのかという根拠も記す。満点にする場合もなぜ満点なのかという根拠を明らかにする。表現の間違いや構成の甘さを見抜き、修正案を提示しながら点数をつけていくと良いのだと思う。評価シートと自分の小論文が手元に戻ってきたとき、自分の文章に対する評価を熱心に読むだろう。
 グループワークなどで、他者の考えを聞き、受容する経験はするかもしれない。しかし、その考えが「どのような形で」発信され、その形が本当に適切なのか、という「型」に対する評価を生徒が行うことは少ない。筆者の考えを読者に伝えるためにはこの「型」がベストなのか、意味段落を整理したり、構成を変えたり、他にもベストの「型」があるのではないか、と生徒自身が考える経験は非常に重要だと思われる。そこに主体回復の糸口があるのではないか、と今は考えている。

6.おわりに

 国語で扱う文章は、何らかの語り手が語ったものであり、そのイデオロギーは中立ではあり得ない。なぜなら、語り手が語ったものの中には、語り手の何らかの思想が内包されているからである。「男/女のくせに」という発話一つとっても、その語り手の中に男/女への何らかのイメージがある。それに語られる主題自体も無数に存在する主題の中から選択されたものである。何を語るかと同時に、何が語られていないか、ということも言葉の教育では批評の対象となり得る。したがって、何かを語る行為――言葉の中には、ある種の欲望や権力が存在するのであり、自身の発する言葉が強固になればなるほど、他者の排除が無自覚に行われていくことになる。それは教材に留まらず、私たちも言葉を発するときには、自身の思想や権力に自覚的にあり続けること。これは自戒も含めて、意識的でありたい。
 国語の授業とは、他者の発する言葉(評論であれば筆者の主張、小説であれば語り手の思想)の裏側に潜む欲望や権力を思考し、他者に簡単に所有されず、相対化していくことへの教育、だと考える。また、他者を安易に所有せず、ともに言葉の応答を通して公共的な場を創造していく場でもある。大切なのは、自らの力で他者と接近し、客体になり過ぎないことにあるのだと思われる。以上、随筆という形式を借りて、「他者」や「主体と客体」というキーワードを中心に、どことなく抽象的な私見を冗長に述べてきた。拙文ではあるが、ご容赦をお願い申し上げたい。

注(参考文献)

(1)溝上慎一(2014)『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』東信堂
(2)ショーペンハウエル(1983)『読書について』岩波文庫
(3)例えば、橋本陽介(2019)『使える!「国語」の考え方』ちくま新書、がある。橋本は羅生門の授業を想定して「私は平均的な国語の授業なるものが、ひどく退屈に思われるのである。書かれていることを板書していって、生徒に発問する。しかし、面皰(にきび)は何を表しているかとか、下人の行動をどう考えるかなど、ぜんぜん面白くない。国語の教師以外に、このような発問が面白いと思う人、意味があると思う人はどれだけいるのだろうか。」(p.244)と述べている。
(4)H・リン・エリクソン、ロイス・A・ラニング、レイチェル・フレンチ(2020)『思考する教室をつくる概念型カリキュラムの理論と実践――不確実な時代を生き抜く力――』遠藤みゆき(訳)、北大路書房、などがある。
(5)文部科学省(2018)『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編』東洋館出版、「現代の国語」C読むこと(1)ア、を参照されたい。
(6)吉川芳則(2022)「説明的文章の領域における実践に関する研究の成果と展望」全国大学国語教育学会(編)『国語科教育学研究の成果と展望Ⅲ』渓水社、p.217
(7)例えば、大学入試のための学習参考書にも読解方略を指南するものは近年増加傾向にある。良書としては、中野芳樹(2012)『現代文読解の基礎講義』駿台文庫、が挙げられるだろう。しかし絶版のため、入手は困難を極める。
(8)辻村重子(2017)「『論証構成図』を導入した中学校説明的文章の『図式化』」全国大学国語教育学会(編)『国語科教育』第82巻、pp.42-50
(9)ミシェル・フーコー(1977)『監獄の誕生』新潮社。フーコーは、規律・訓練権力が個々の人間に対し、どのような作用を及ぼすかについて、「その権力は(人々の)もろもろの力を減少するためにそれらを束縛するのではない。それらを多様化すると同時に活用するように、それらを結びつけようと努める」「流動的で雑然として無駄な多量な身体ならびに力を、多様性のある個別的な諸要素――切離された小さい独房、有機的な自立性、段階的形成を中心にした同一性と持続性、線分状の組み合わせ――として〈訓育を課す〉のである」(p.175)と論じている。フーコーの権力理論においては、学校が規律・訓練権力システムの重要な一部となる。試験は、生徒の可視化、記録化、階層秩序化をもたらし、各々をひとつの事例として顕在化させる。授業の様々な場面で、生徒が自己の思考や認識や判断を言語化しなければならないのは、彼らの内面を可視化する要請が学校空間の隅々に行き渡っているからであり、生徒の内部に言語化への衝動があらかじめ備わっているからではない、という主張である。特に国語では、言語化という行為がなされることによって、初めて生徒は学校の構成員として主体化され、学校というミニチュアな社会に参加しているとみなされる。逆に言えば、個性や内面は、授業やその他の場面において、常に他者と共有可能な水準で言語化されなければならず、他者と共有できない個性や内面は、それが自分にとってどんなに重要なものであろうとも、学校=社会においては価値や意義は与えられないというのがフーコーの悲観的結論である。
(10)慶応義塾大学入学試験問題、法学部、論述力試験の表紙を参照されたい。

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