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そこを戦場にしているのは誰か

先日、職場で事件がありました。

とある学生アルバイトが、社員に注意されて泣いてしまったのです。

些細なことに思われますが

同一人物による
同内容の出来事が
二日続けて起こった

という点で、ちょっとした騒ぎになりました。



件の人物は、平素から “困った人” 扱いをされている強者です。

ときどき個別に発生する小火(ぼや)で、2人ともお母さんに構ってほしいニーズを根で抱えているように見受けられました。

それが今回の表面化でいよいよ派手にぶつかり合い、両者一歩も譲らず互角の戦いを繰り広げた。

わたしは被害者だ。

悪いのはあなただ。



私は彼らと同じことを、以前の職場、学校、友人関係等で散々やって、人との繋がりを壊してきました。

相手はお母さんではないので、ニーズに応えるのは無理なんです。

……という考察はあくまで私というフィルター越しのもので、実際そうなのかは、証明しようがありません。



事件発生に喜ぶ自分と、その野次馬根性を嫌悪する自分。

こみ上げてくる感覚はすべて受け入れて、望みを生きる、と強く意図する。

その場で比較的すぐにシフトできたことは、本当に幸いだったと思います。



こうした方が良いんじゃないですか?

などと意見しようものなら、それは自ら火事に飛び込む行為であり、彼らを放火犯にするようなものであり、結果として油を注ぎ、事態をさらに悪化させたでしょう。

本当の自分は、そういうことはもうしたくないのだ、と自覚できるようになりました。

つまり、この世界には、まるで「質量保存の法則」のように一定量の〈哀しみ〉や〈憎しみ〉が存在しており、人々はそれを分け合ったり押し付け合ったりしながら生きているのかもしれないと思えるのです。

〜中略〜

だとしたら、この消すことも、なくすこともできない〈哀しみ〉や〈憎しみ〉は、誰が請け負えばよいのでしょうか。

そんな不幸で理不尽な役回りを、誰が引き受けようというのでしょうか。

荒井裕樹『生きていく絵』ちくま文庫


哀しみや憎しみは、皆で分担して請け負う。

各々が唯一無二の体験を通して請け負い、受け入れるものだと思います。

正義の盾や、悪と戦う剣を作り出すためではなく、まして、スケープゴートを仕立て上げるために、使ってはならないと思います。

受け入れるたびに新たな望みが生まれ、それを叶えることが、真の人生の創造に繋がっていく気がします。



いまの私の望みは

どんなに忙しくても、無茶なオーダーに煽られても、一挙手一投足に敬意を払って仕事をする

です。

面白いですが、超難関です……



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