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読書したほうが良い理由。

私が子供の頃は「本を読みなさい!」って言う大人がたくさんいましたが、本を読まなきゃいけない理由ってあるのでしょうか?

うん。

ないw


別に本なんて読まなくたって楽しく生きていけるし、今は実用的な知識を手に入れたいのならばyoutubeを見るのが1番手っ取り早いし、よっぽど有用な知識が秒で手に入りますよ。

ほんとさ、サッカー少年だった私が子供の頃に手に入るサッカー情報は、「サッカーダイジェスト」とかの日本リーグ、天皇杯、高校サッカーとかの選手紹介とか試合結果が載っている雑誌を読むか、テレ東でやってたダイヤモンドサッカー、あとは、本屋で売っている「奥寺康彦監修・サッカーが上手くなる本!」を見るとかってものだけでした。

しかもその本とか、ボールの蹴り方なんかを下手な漫画家がしょぼいイラストを書いただけのしょぼい情報でしかなかったわけですが、今はさ、メッシとかエンバペとかクリスティアーノ・ロナウドとかの世界最高レベルの選手のプレーやプレー解説を見放題ですよ。

「ドリブルを覚えたい・パスを覚えたい・フェイントを覚えたい」って思ったら、動画を漁れば超一流のモダンなプレーがいっくらでも出てくる。

私の頃は「戦術」って言葉すらない時代でしたが、今は小学生だって学ぼうと思えば、マンツーマンディフェンスも、ゾーンディフェンスも、5レーンも、ネガトラ対応も、ボランチのセンターバック化も学べる。

そんな時代に本を読む意味はあるのか?


・語彙を覚えられる

youtubeを見てて、特に切り抜き系の動画には字幕が入ることが多いですが、その字幕の文章力というか語彙力というか、そういうもののレベルの低さは結構なものです。

動画の元ネタの人に文章力・語彙力があっても、それを切り抜いて拡散する人にその力がないと、まあ、悲惨なことになる。

「彼はしんしです」って言った時にね、「真摯」って言葉を知らないと、ほぼ全ての人は「紳士」と捉えるでしょう。

動画で同音異句の言葉を習得するのは極めて難しい。

そもそも動画というのは言語情報がなくても通用する媒体なので、言い方が悪いですがバカでも見れます。

言葉の意味がわからなくても、やっていることと、怒ってる・笑ってる・泣いてる・驚いてるっていう顔の表情を見れば、文脈は理解出来ますからね。

私は子供の頃、漫画以外は本当に本を読まない人間で、高校の夏休みの読書感想文の課題も、図書館でヘレン・ケラーの絵本を読んで適当に書くくらいでした。

なので、高3になって受験の為に小論文を勉強し始めて、教科書の評論文を読んで、わからない文字を挙げていったらわからない単語だらけになってしまった。

忘れもしません。「普遍性」って言葉が全く意味不明でした。

今の私からすれば考えられないことですが、「普遍性」って言葉を知らずに日常生活を送るのは中々きついと思います。

いや、送れるけどさ、30才、40才、50才になって、普遍性という語彙を知らずにやり取りするコミュニケーションはお世辞にも質が高いとは言えないと言って良いでしょう。

もうちょいハッキリ言うと、「普遍性」って言葉も知らない人間はまともな大人の会話なんて出来ないよ。出来るわけねえだろw

抽象度の高い語彙を知らない・意味を知らないってことは、それすなわち抽象度の高い思考が出来ず、個々の事象を包括した概念を掴んで処理することが出来ないということです。


・想像力・思考力がつく

映像の場合、砂浜に真っ赤なスーツを着た男50人と真っ赤なドレスを着た女性50人が交互に手をつないで一列に並んでいるシーンは、そのまま見れます。

ただ、そのまま視覚情報として見れる。

でもね、今あなたは私が書いた文章によってそれを想像したはずです。

「真っ赤なドレスを着た女性」を思い浮かべた時、特定の誰かかもしれないし、架空の「こんな感じの女性」かもしれないけれど、脳内でアバターを作り上げたはず。

そして、その海は、どんな海でした?

晴れ渡った青空の下の穏やかな海なのか、曇天の灰色の海なのか、星空が海に反射している冬の海なのか、嵐が来る前の風吹き付ける荒れた海なのか?

「赤いドレス」の赤はどんな赤でした?ルビーのような赤なのか、シャネルの口紅のような赤なのか、トマトの赤なのか、桜色がかった赤なのか。

私は「砂浜」としか書いてないから、どんな海を想像するかはその人の自由であるし、その人の気分や考え方によってそれぞれの世界観が広がったはず。

世界を想像する力、物語を想像する力、他者や登場人物の気持ちや行動を想像する力は、「全部を見せて、全部を描いている映像」では得にくいものです。

読書であればね、強く感動した場面や、あまりにも重いシーンがあると、多くの場合、多くの人が1回手を止めて、本を閉じたりしますね。

閉じて考えたり、反芻したり、思い返したりする。

でも、映像の場合はドンドン流れていきます。

感動する良いシーンで、映像を止めて、余韻を楽しむ人がいないとは言いませんが、決して多数派ではないでしょうし。普通は、そのまま見るわw

想像力を働かせている時、本を閉じた状態でも、その物語の世界は確かに自分の体内に取り込まれ生き続けます。


・読む物語の世界観の深度、濃度、広さが違う。

良い映画、良いドラマってのはたくさんあります。

私も好きな映画はたくさんありますが、映像作品の素晴らしいところは、すげえ美人とか出てきて、すげえ良い音楽が流れて、すげえ美しい景色が見れて、すげえ良いエンディングだったりするところ。

私の知らない美しいものをたくさん提示してくれる。

どれだけ想像力があったって0から1000は想像できないわけで、想像力の材料になるものは必要です。

また「映像だから出来る凄さ」ってのは確かにあって、貞子が出てくる「リング」という作品は原作も大ヒットしましたが、あれね、原作のラストは全然違う描写なんです。別にそんなに怖くない。

でも、それを映画化して「テレビから髪の長い白服の女が這いつくばって出てくる」ってものにしたのは完っっっっ全なる映像の勝利で、あれはどれだけ想像力がある人でも勝てないでしょう。

なので、映像には映像の良さがありますが、例えばね、私が25才くらいの時に読んだ村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の物語の壮大さに勝てる映画があるのか?って言ったら極めて難しい。

というか、ない。

あのお話だってね、映像化しようと思えば出来るでしょうが、映画になって、それがどれだけ良い出来だったとしても、私が読書で得たような感懐は持てないでしょうね。

なぜなら、物語を本で読むっていうのは、常に自分が自分の想像力を使って自分の人生・物語と相互に関わり合いながら読み進めていく極めて個人的な作業だからです。

映画よりは朗読のほうが自分が関わる余地は増えるし、朗読より読書の方がもっと自分が関わる余白は増える。

最近、私がはまっている落語は、何も見せていない分、想像の余白が大きいので読書的楽しみが大きい。

読書というものの大いなる価値は、その余白の部分にある気がするのです。


なんかね、多くの人が言う、読書した方が良い理由としては、

・国語力がつく
・文章力がつく
・話題が増える
・教養が身につく
・コミュニケーション能力が上がる
・時間を有効活用できる

とかってものだったりしますが、私が最初に書いた語彙を覚えられるってこと以外は、文章理解度が高まるってことくらいじゃないでしょうか?

本を読んだって文章力なんて上がらないし、その他のことは別に情報系の動画でも全然代替できると思いますよ。

料理のレシピにしろ、スマホの操作法にしろ、自転車のパンクの直し方にしろ、動画を見るのが1番手っ取り早いし、役所系の手続きや諸々の申請書の出し方、遺書の書き方、遺産相続の仕方などを知りたい時に、youtubeで見ないで本屋に行く人ってどういう世界線の人だよw

日常生活を日常的に送るわたしたちが、昔、読書でしか手に入れられなかった知識の9割は動画やそれに対応したサイトで見れると言って良いと思います。

私は気になったことがあると、調べずにはいられないタイプで、昔はそういうのがあると夜中でも「この本に書いてあった気がする」ってモノを見繕って本を出して延々と調べる作業をし続けてました。

でも、今やスマホでググれば2秒で出る時代。

だから、その意味では活字を読む必要なんてない。

なので、活字を読むって意味での読書は、「基礎的な国語力を身に付け大人として恥ずかしくない程度のそれなりに高度な抽象的会話ができる言語能力を身につけること」と、「物語の世界に深く入る」くらいの意味しかないような気もしますねえ。

それ以外に「読書でないと獲得できない」ってものは浮かばない。

というか、その2つを獲得できるって意味で、唯一無二の体験媒体であることは間違いないのですが。



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