『枕草子』”名おそろしきもの”から考える清少納言の恐怖観②
名よりも見るはおそろし
『枕草子』百四十六段を構成するもう一つの部分が、
「見るのがおそろしいもの」である。(本文②)
「生霊」とは、生霊のことである。
「蛇いちご」とは、植物のヘビイチゴのことである。毒などの実害はないが、その赤々とした実に不気味さを覚えたのだろうと思われる。
「鬼わらび」は、植物ワラビの大きいものである。
「鬼ところ」は、植物トコロの大きいものである。
度を越して大きくなった植物に対して仰々しさと共に、一種の不気味さを感じていたのだと思われる。
「荊」は、植物のイバラのことである。
「枳殻」は、植物のカラタチのことである。
トゲのある植物というのは珍しいから、不気味だったのだろう。
「炒炭」とは、刺青を入れられる刑罰の一種である。
「牛鬼」とは、ここでは牛頭の獄卒のことを指していると思われる。もしくは、口頭伝承に残る水辺に棲む妖怪のことである。
「碇」は、船を停留させるための道具である。これもイバラ等と同様に、刺々しい形が不気味に映ったのだろうか。
まとめ②
上記の「見るのがおそろしいもの」を大まかに分類するとすれば、以下のようになる。
オバケ型:生霊、牛鬼
見た目型:蛇いちご、鬼わらび、鬼ところ、荊、枳殻、炒炭、碇、(牛鬼)
オバケ型は、恐怖の根底に霊や妖怪がいるものである。本来は存在しないものと遭遇する恐怖ともいえる。
見た目型は、見た目が恐ろしく、不気味なものである。
清少納言の恐怖観
以上のことを踏まえて、清少納言の恐怖に対する価値観を探っていく。
まず、特徴的なのが「名がおそろしきもの」の中に、強盗等の「実害型」が含まれているという点である。
「実害型」以外の、「畏怖型」と「字面型」は、恐怖の大部分が観念的な要素で構成される。例えば、畏怖型は迷信が大きな構成要素であるし、字面型は文字の持つ意味が大きな構成要素となっている。
対して、実害型の構成要素は概念ではなく、強盗や出鱈目な僧による「実際の被害」なのである。
迷信が怖い、自然への畏怖という感情はよく分かる。字面が不気味だというのも、恐怖の度合いは小さいものの「名がおそろしい」という考え方に合致する。
しかし、畏怖型ほど超越的でなく、字面型ほど概念的でもない強盗や出鱈目な僧を「名がおそろしきもの」として挙げるのは、現代人の私の感覚からすると、いささか恐れすぎなように思う。
ここから考察できるのは、清少納言が実害型の恐怖を非常に恐れていたということである。それは平安時代において、今ほどの安全が保障されていなかった故なのだと考える。
さらなる発見は、畏怖型とオバケ型の相違である。
どちらも、人間の計り知れない、ある種の超越的な恐怖である。
それにも関わらず、畏怖型は「名がおそろしいもの(ここでは『名前を聞くだけでもおそろしいもの』と解されるべきだろう)」であり、オバケ型は「見るのがおそろしいもの」として扱われる。これも現代人の私からすると、納得がいかない。ふつうオバケ型は直感的に、名前を聞いただけで怖くなるものだし、逆に、畏怖型は実際に触れる機会がない限り、そこまで恐怖を感じないと思う。
ここから考察できるのは、清少納言が感じた恐怖の度合いについて、オバケ型に対するそれよりも、畏怖型に対する方が強かったことである。信心深い彼女は内心、「オバケより神様のほうが怖い」と思っていたのかもしれない。
最後に、見た目型として、刺々しいものが多く挙がっている点にも注目したい。イバラやカラタチはトゲをもつ植物であるし、碇の形状も尖っている箇所が多い。清少納言は尖ったものに恐怖を感じるような、現代で言うところの先端恐怖症的な心理を持っていたのではないだろうか。
【参考】
・〈名恐ろしきもの 其の壱: ラフェットの備忘録 (seesaa.net)〉2024,7,13閲覧
・〈名恐ろしきもの 其の弐: ラフェットの備忘録 (seesaa.net)〉〃
・〈名恐ろしきもの 其の参: ラフェットの備忘録 (seesaa.net)〉〃
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