上都集 - 示現体編 2

射影透析について話そう。
プロジェクション投影を次元構造に当てた時、現実世界がその位置に当てはまる事についてその次元を理解している現実世界で起こる事が自分にも起こる。そう言う見方をすればそう起こり得る事が起こる。霊能者は現実次元、現実世界にフォーカスしてはいけない。その世界を無視したら強い力で引き戻されるので、元々その世界を見ていなければ痛い目を見る。
前述の視眼師、次元師、開坐師は技術としての霊能に特化しており、天性の霊能は接続師、破界師、阿留魔師となる。阿留魔師はテレパスコミュニケーションという霊能力の核を結界で行う方が理解しやすいと聞く。現実世界を見ると現実的に生きるとは接地面の会話であり、当然距離のキャリアが叶う時にたまたまコミュニケーションを取る程度の能力に収めないと生活が成り立たない。上の3タイプの霊能は現実的な能力に置き換えないと使えない。下の3タイプは非現実に次元視点を据えていないと現実がおかしくなる。
目の中のゴミが視界に映る飛蚊症と言う症状がある。自分を例に取ると私は透明の浮遊物が見える時に事実上飛蚊の場合目を動かすとゴミも動くのだが、私は動かなく同じ位置にゴミの様なモノが写ったままだ。これは光学的視点を眼球の内に持つ事であり、それがゴミであろうと空気が濃厚な部分を特徴的に見ているのであろうと物理的外部に頼る視覚野以外の超感覚が活かされる視覚を得ている事になる。
つまりは錯視覚に左右された世界を見ている事で、錯界に座しているので脳の中の視界野がそう言う世界を作り光学視野と表層視野を使い分ける事になる。霊が見えるとは光学視野と表層視野を両方持つ者が重ねる次元に生じている事でその両視野に重なる者が見える。
自らのフォーカスする次元構造に霊が存在するとは射影世界が透析してそちらの世界とやり取りが叶うという事。フォーカスした次元世界を生きていないと生きる力を得られない接続師、破界師、阿留魔師はいかに現実離れしようとその視点からやってくる世界を認めて非現実存在の中で認められる様な人生を送らなければいけない。こちら側にやってくるモノとの橋渡しであり窓となりあちら側の存在を導かなければいけない。こちら側の世界へ。
表層の世界を光学処理する視点を射紋投射と言い、アートを摂取する視界であるが図書を読む時に文字の視点から見る自分を視覚的に捉えるとよくわかる。作品からの視点を見る事が光学視点で、1枚の絵画が自分を見る時光学的に概念的に絵とコミュニケーションを取るとその絵画の次元からの視点が理解されるのである。
その絵の次元理解と文脈処理能力をダウンロードすることになりその視界野を手に入れる事は
密教の胎蔵界曼荼羅を寺院に入りインスタレーションとしてインプットし追体験する事と同じだ。

話を変えて、悪霊が憑くと悪霊のやりたい事を人間の力でやり、悪霊のエネルギーを受けて乗りこなさないと人生が悪霊の人生となり苦難から抜けられないし悪霊同士の諍いを人生上で実現する様な人生に巻き込まれる。
悪霊は自らの力を使わせて争いの世界へ誘い、人間には使われる事を嫌う。悪霊の力を使うとはもってのほかで人ならば人間として生きて学ばなければ悪霊界へ身をやつし出られない。
人として生きた暁に悪霊でさえ納得しその身から去るのならば人間としてその能力を収めたという事になり免許皆伝の印となろう。
悪霊は他の悪霊を惹きつけるし、人は助けを引き寄せる。人として生きねば救いも助けもないのは当然だ。
悪霊の窓となる事は光栄で、その世界に喰われようと生き抜こうと関係なしに価値のある事だ。様々なインスピレーションの元になり、その力を認める事は霊能力、テレパスを認める事になり、人として生きる事に目覚めるという事だと考えている。悪霊は自分とは違う尊敬すべき存在で、異なる言い方をするならば聖者であろう。ただ人より厳しいだけである。
聖者の霊魂が例え話悪霊と呼ばれるのはあまりに修行が厳しい為だ。聖者ならば天使でも同じだろうが人は苦しい事を与えるものを悪魔とか悪霊と言う。悪ければ性格が悪いかと言えばそんな事はない。普通に生きて悪影響が強いだけで分類されているだけだが、その修行を超えた者は理解する。自分が弱かっただけで悪ではなかった、と。聖者とは知恵であり、人として生きる力を学ぶ事である。人として生きるならば結局は力を使わない事を選ぶ事になり生きる知恵として大成する道に入るという事である。

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