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こんなにかっこいい人がほかにいるか?|『凜として灯る』書評|高島鈴

『凜として灯る』刊行を記念して、ライター・高島鈴さんに書評を寄稿していただきました。

私は今、自分のことをフェミニストだと呼んでいる。胸を張ってそのように公言できる。それに対していい顔をしない人はいまだに結構な数いるようだが、現状の社会を直視してそれでもまだフェミニストになる選択をしない人の方が、私にはおかしいと思える。その判断に自信がある。

そう思えるのには歴史的系譜がある。たとえば私が50年前に生まれていたら、同じ判断をしただろうか? おそらくそれは簡単ではない、というか、フェミニストという言葉に出会っていたかどうかすら、定かではない。たくさんの先人が作り上げてきた道が私の背後には続いていて、私はその道の上にいる。だから私はフェミニストだと言える。そう思う。

荒井裕樹さんの新刊『凜として灯る』は、その先人の一人、米津知子さんの評伝だ。米津さんはウーマンリブの流れの中にいたフェミニストであり、同時にご自身も足に障害を持つ障害者運動のアクティビストだった。

米津さんの運動を象徴する出来事が、本書では冒頭から紹介されている。1974年4月20日のことだ。当時鳴り物入りで来日・開催されていた東京国立博物館の『モナ・リザ展』は、障害のある入館者、子ども連れの入館者らに対し、ほとんど入場禁止に近い措置を取っていた。同展示に抗議していた米津さん――そのとき25歳だった――はその日、赤いカラースプレーを持って入場し、『モナ・リザ』に向かって噴射したのである。米津さんはその場で警官に取り押さえられ、連行された。絵には3枚もの防弾ガラスが重ねられており、スプレーはその下部をわずかに赤く濡らしたのみであった。

しかしそれは米津さんにとって奪われた尊厳を奪還するための抵抗運動であり、同時にウーマンリブ、障害者運動の両面から見て、極めて重大な意味を持つ赤だったのだ。

本書の魅力は、左翼運動の転換期、フェミニズムの転換期、障害者運動の転換期を、複雑な立場を持った米津知子さんの視点から、複雑なままに描いている点にある。今でこそインターセクショナリティという言葉が広まってきて、同じカテゴリに入れられている人の中にも階層や差異が多くあること、一人の人間の中でさまざまな属性が衝突して差別の経験を作り出すことが知られつつあるが、米津さんの青春時代にそのような理解はまだ浸透していない。

米津さんは学生運動に身を投じ、女性差別に直面してウーマンリブへ辿り着き、障害を持つ自分を曝け出す勇気を得て障害者運動に関わっていった。その過程で何度も何度も、自己に向き合い続けた。米津さんが手探りで歩み続けた激動の歴史はそのまま、現在へと続く権力への反抗の歴史である。

米津さんの軌跡が胸に迫るのは、やはり米津さんが自分自身に対して向き合い、己という存在が何なのかを言葉にしようと突き詰め続けた人だからだと思う。

前半ではウーマンリブとの出会いと、その過程で米津さんが自らの足を、身体ひとつを、社会に向かって解放していく様子が語られる。米津さんは1971年に行われた「第一回リブ合宿」に向かう際、長下肢装具を着けた足をショートパンツで曝しながら、「私を見て!」と書いたTシャツを着て歩いて行ったという。己を社会にむき出しにする、この行為は「自分語り」などと呼ばれて、今でも忌避されやすい。だが「自分語り」は、自分が社会のどこに立っていて、何との間に軋轢を抱えていて、どこへ向かおうとしているのか、それを知るための第一歩ではないか? 米津さんの極めて丁寧な自己省察、思考の記録を見るに、「自分語り」こそ社会を変えようと望む人の基盤なのではないかと、そう思わされるのである。

本書にはいくつも米津さんの名言が引かれているけれど、私は何度もその省察に驚かされた。

私の肉体が、それが美でも醜でもないところに解きはなたれるとき、それが私の解放だ。

『凛として灯る』103頁

この文言に出会ったとき、私は特に驚愕し、同時に大きなシンパシーを抱いた。ほとんど同じことを、私も米津さんに出会う前から主張していたからである[1]。今から50年も前に、私と同じことを考えている人がいた。それは社会がまだ50年経ってもマシになっていないという意味でもある。しかし同時に、私は米津さんの言葉に、自分に連なる見えない道を見たのだった。

後半では、優生保護法(現在の母体保護法)改悪阻止闘争、そして米津さんの起こした『モナ・リザ』事件の裁判に関して詳しく述べられている。前者に関して、ウーマンリブと障害者運動団体「青い芝の会」が対立したことを見聞きしたことのある人は少なくないだろう。中絶の選択権は女性にあると述べたリブ側に、「青い芝の会」は障害者の堕胎を促進する差別であると言って激しく批判したのである。

米津さんはリブに属しながら、同時に障害者であり、その間で引き裂かれていた。そして引き裂かれる「惨めな私」を自覚しながら、「なぜ女に障害者殺しをさせるのか」という社会に対する怒りを権力に向けようと「青い芝の会」へ呼びかけ、両者の橋渡しを試みていたのである。

この困難な対話のあとに、事件は起きた。事件を起こしたのが米津知子という人であったことの必然性は、もう言うまでもない。起訴された米津さんは、激しい裁判を闘ったのち、科料3,000円を申し渡されるが、この支払いを全て1円玉で行った。こんなにかっこいい人がほかにいるか? いない。

存在していい/いけない。この線引きは見えないけれども確かに存在している。あっていいものではない。いてはいけない人間などいるわけがない。米津知子という人は、全身全霊でそれを告発してきた。

今、私も自分について考える。人間存在を否定しない社会を作り出すために、自分がこの人から何を受け取れるのか、それを考えている。


注釈
[1] https://wezz-y.com/archives/91811 (最終アクセス2022年5月24日23時)


荒井裕樹著、凜として灯るの書影画像です
●高島鈴さん推薦●
『凜として灯る』
荒井裕樹著
1800円+税


高島鈴(たかしま・りん)
1995年、東京生まれ。ライター、アナーカ・フェミニスト。ele-king(Pヴァイン)、『シモーヌ』(現代書館)、『webちくま』(筑摩書房)で連載。二木信・山下壮起編著『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社)、『文藝』(河出書房新社)などに寄稿。


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