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ケアと男性|第1回 ケアは面倒くさい?

福祉社会学者・竹端寛さんによる連載がはじまります!
子育てのなかで気づいた「ケアのおもしろさ」や、男性として生きるなかで知らず知らずのうちに沁みついていた「生産性至上主義」との向き合い方について綴るエッセイです。

第1回目は、「実のところ、ケアが面倒だった」という反省からスタート。

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「女もすなる」

ケアについて、男性が体験談を書く。

それはどうしても、学生時代に暗唱させられた、あの土佐日記の逆バージョンになりやすい。

「女もすなるケアといふものを男もしてみむとてするなり(女がするというケアというものを、男である私もしてみようと思って、やってみました)」

「なんだか、それってずるい」。

男性の体験談には、このような反論が、ケアまっただ中の女性からしばしば寄せられる。子育てを例に取ると、女性なら「やって当たり前」とされるし、やらないと「母親のくせにそんなこともしてないの」と非難される、減点方式が標準である。

一方、男性の場合は、そもそも子育てに積極的な男性が少ないから、「そんなことまで(父親であるあなたが)するのですね!」と加点方式で評価される。「イクメン」なんてちやほやされる。その非対称性が「ズルい」と、女性から「攻撃」されるのである(これを「攻撃」と受け止める背景や課題については、追々考えたい)。

これは、よくわかる。実際、3歳の娘の子育てをするぼく自身の話をぽろっと話すと、そういう賞賛や評価を受けてしまう。でも、その一方で、同じことをしている妻にそういう評価はなされないので、気が引けてしまう。なんで、こんなに非対称なんだ、と。

そもそもこの社会の「ケアは女がするもの」という常識が間違っているのだと思う。ぼくはそう思ったから、40歳を越えて待望のわが子を授かったときに、できるかぎり妻と同じようにケアをしてみようと思い立った。

だが、言うは易く行うは難し。実際にはじめてみると、ぼくがこれまで「世の中、そういうもんだ」と思い込んできた「当たり前」とか「常識」を、根本から「ほんまかいな?」と問い直す必要性を感じ始めた。

それは一体、どういうことだろうか?

ケアから逃げていた

ぼくは一応大学教員で、福祉を研究対象にしている。すると、ケアという領域について見聞きすることも少なくなかった。

でも、子どもが生まれるまで、ぼく自身はケアから逃げてきた。実際のところ、ケアが面倒だったのだ。物理的な時間がとられる。自分の時間を他者の生活に差し出す。そのことに、どうしても意味や価値を見出しにくかった。

そういう意味では、福祉を研究しながらも、自分の生きる価値としては、ケアよりも仕事をこなすうえでの効率性とか、生産性を考えてしまうくせが染みついていた。

で、実際に子育てを始めて、ケアから逃げ(られ)なくなって、どういう変化が生じているのか?

本音を言うと、面倒くさいのは、変わりない。時間がめちゃくちゃ取られる。こちらのしたいこと、せねばならないこととはお構いなしに、子どもは泣いたり疲れたりぐずったりゲロを吐いたりお漏らししたり……する。そのたびごとに、夫婦のどちらかがサポートする必要がある。

40年くらい、自分中心に生きてきた人間が、その中心を自分以外の誰かにゆずり渡すのは、実に面倒だ。蒸し暑い夏の日、公園で汗だくになってすべり台や砂場遊びを延々としていて、「そろそろ帰ってお風呂に入ろうよ」と声をかけても、「まだ帰らない!」と叫んで宣言されると、ぐったりした気分になる。ああ、ややこしい、と叫びたくもなる。

ただ、「面倒くさい」の向こう側にある世界を、これまでのぼくは知らなかった。

たとえば、午後に近所の公園に行くと、たくさんの子どもたちが遊んでいる。娘を見守りながらぼんやりしていると、子どもたちのいろんなおしゃべりが聞こえてくる。時には娘と遊んでいるぼくにも話しかけてくれる子もいる。子どもたちと関わっていると、受験勉強を始めた中学以来、だから30年以上忘れ去っていた、「あそび」の世界の面白さが、じわじわと伝わってくる。あるいは、ラジオ体操が大好きな子どもに渋々つき合って、朝の6時半から公園に出かけると、おじさま・おばさまのラジオ体操コミュニティの一員に入れてもらえる。さらにいうと、子どもと一緒なら、そういう異空間もすんなり入れてしまえる。

仕事中心に生きていると、どうしても効率性や生産性を重視してしまう。でも、子どもとともにいて、子ども中心の生活に巻き込まれていくと、ぼくが大切にして、少しは「勝ち誇って」きた効率性や生産性がなぎ倒される。

それだけでなく、効率性や生産性の尺度では切り落とされた「余白」のような時間や空間が見えてくる。そのことによって、自分には何が見えなくなっていたのか、という盲点にも気づかされる。ずいぶん肩肘張って生きてきたし、気づけば視野が狭くなっていたな、と。

ケアを面白く思えると、自分の価値観が変わる。

大げさかもしれないが、そんなことを感じ始めている。世の中の生産性や効率性という評価尺度をクソ真面目に内面化してきたぼくにとって、これまで信じてきた尺度をとりあえず横に置いて、べつの価値観や評価軸をもつのは、簡単ではないからだ。

でも、めちゃくちゃややこしいけど、めちゃくちゃかわいい娘と日々接していると、娘が父としての価値観の変容を、ごくごく自然に、でも父にとってはけっこう強引に、迫ってくる。渋々ながら、子どもの世界に付き合うことで、ぼくが忘れてしまった、すっかり捨て去っていた、大切な別の価値観を、学び直しつつある。

自己完結の先に

ケアが面倒くさいのは、自己完結の世界で終わらず、自分以外の他者の時間軸や価値観、生き方……を受け入れ、その世界と折り合いをつける必要があるからではないか。ふと、そんなことが浮かぶ。

娘は、こちらの都合を忖度しない。おなかがすいた、眠たい、遊びたい……いったんそのスイッチが入ると、こちらの状況や段取りなどおかまいなし、全力で主張してくる。

最近はお洋服を着替えるのが趣味のようで(近所のお姉ちゃんからおさがりをたくさん頂いた)、一日、4・5回は服を着替えようとする。「まだ汚れてへんやん!」という父の訴えも、「これ、きーるーのー!」という声にかき消される。ああ、そうでございますか。洗濯物は増えるけど、うちの娘が機嫌良くやんちゃできるなら、まあ、ええか、と。大甘の親である。

でも、それは単なる甘やかし、ではないような気もする。彼女がしたいことを言葉にして伝えてくれる。それを、ぼくが受け止める。親が彼女を思い通りにしようとするのではなく、ぼくとは違う一つの人格をもった娘が、自分自身のしたいことを言葉にし、実現するのをお手伝いする。どうしてもダメなことは、説明して、彼女になんとか理解・納得してもらう。それは、ぼくの思った通りではないし、面倒くさいし、時間がかかる場合も(しばしば)ある。

でも、そこと折り合いをつけると、一人の個人としての娘と出会うことができるような気がする。面倒くさい、の先に、彼女オリジナルの価値観や時間軸、生き方が育まれてくる。

男性は、他者の時間軸や価値観との折り合いをつけるケアを、女性に押しつけることによって、自分中心の時間軸や価値観、生き方を強固なものにしてきた。そのおかげで、業績を増やしたり、成果を上げたり、その結果として収入や地位、社会的評価を手に入れてきた。

男性のぼくがケアは面倒だと感じていたのも、自分の物理的時間とか、やりたいこととか、段取りとか、そういうものをなぎ倒されるのが嫌だと感じていたからだ。そのことに、子育てをするようになってから、やっと気づいた。

たしかに、自己完結したほうが楽だ。娘のケアを妻に任せて、毎日毎週毎月のToDoリストをサクサク片付ける方が、成果や業績は上がるだろう。でも、いったんこの面倒くさい世界の面白さを知ってしまうと、これまでぼくが必死になって頑張ってきた、「思い通りにする世界」の「ゆがみ」のようなものにも、気づき始めた。

いわゆる男性社会で勝ち残ってきた女性のなかには、「男性並み」、もしくはそれ以上の期待に応えている人もいる。そういう人は、もしかすると、何かを犠牲にせざるを得ないのかもしれない。以前、猛烈仕事人間だった女性と話をしていたら、その職場では仕事が立て込んで生理が止まる人が多く、職場で生き残った女性は、独身か子どもがいない選択をしている人も多いという。

ジェンダー平等はもっと進めるべきだが、属性を考慮せずに過酷に働く平等を女性にも強いるのは、いまのぼくには気持ち悪い。社会に決められた性(ジェンダー)に関係なく、もっと自分の身体と心を大切にできる仕事環境であってほしい。とくに長時間労働の慣習は、一刻も早く是正されてほしい。

そのことにぼくが気づけたのも、子どもが生まれてから、であった。そもそも、長時間働いていたら、子どもと関わる時間をつくることは不可能だ。そして、仕事とケアを両立すると、無理したらすぐに風邪を引いてしまう。

でも、子どもは待ってくれない。そんななかで、子どもの時間軸や価値観、生き方と折り合いをつけるためには、ぼくがそれまで必死になって適合しようと頑張ってきた、生産性や効率性の世界から、一歩降りる必要がある。

根が生真面目で“びびり“のぼくは、社会の「当たり前」から降りるのはめちゃくちゃ不安だし、評価されなくなるのでは、と恐怖で一杯だった。でも、降りてみたら、心身ともに、以前よりはるかに楽になった。

すると、思うのだ。これまで何に追い立てられていたのだろう、と。

ぼくはケアをはじめてまだ4年弱の新参者である。しかも、この間しょっちゅう、いろいろなことでモヤモヤし、自分の価値観がグラグラ揺れている。生産性や効率性という尺度を少し脇に置くだけで、こんなにモヤモヤ・グラグラするとは、思ってもみなかった。

でも、その模索の先に、別の世界がありそうな予感がしている。この連載では、そんな身近な「未知」の世界をぼちぼち探検してみようと思っている。


竹端寛(たけばた・ひろし)………1975年、京都市生まれの団塊ジュニア世代。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。主著は『「当たり前」をひっくり返す―バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』、『権利擁護が支援を変えるーセルフアドボカシーから虐待防止まで』(共に現代書館)、『枠組み外しの旅ー「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)など。趣味は合気道(二段)とハイキング、ジョギング。美味しいものを食べる・飲む・作るのが大好き。

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