見出し画像

【試し読み】石川優実『#KuToo:靴から考える本気のフェミニズム』


「私が怒っているのは、相手を変えたいからじゃありません。差別してくる人たちに怒って何かを変えようなんてちょっとも思っていません。
私は、差別されている側の人が自分も怒る権利があるんだということを知って欲しくて怒っています。」
石川優実さん note.より(2020.2.14)

『#KuToo』発売から3カ月、Twitter上での石川優実さんへの誹謗中傷が跡を絶ちません。
 石川さんがどのような気持で闘ってきたのか、みなさんと共有できればと思い「2 #KuToo バックラッシュ実録」より、石川さんによる総括部分を公開します。

画像1


#KuToo や私を誹謗中傷するおびただしいクソリプに対抗することを、とにかく多くの人に咎められた。
 「いちいち相手にするなんて自分も同レベルだ」「穏やかに」「そんな暇があるなら本読むなり勉強した方がいい」「他にやることがあるだろう」「それを続けると運動から人が離れますよ」「疲れすぎて精神的におかしくなってますよ、休んでください」。
 その度に私は、「なぜ私がしたくてしていることをやめさせようとしてくるの?」と反論した。「あなたがそのような考えをおもちのことは分かりました。だけど、私の行動は私が決めます」と伝えた。すると、「人の話を聞かないやつだ」と言われた。私が「そうですね、あなたの言う通りにします」と言わなければ終わらないではないか。そう思った。人の話を聞かないのではなく、「あなたの意見を取り入れない」と私が決めただけなのに。あなただって私の意見を取り入れないではないか。どっちもどっちなのに。なぜ私だけが人の意見を聞かないやつとレッテルを貼られるのだろう。
 侮辱されたまま、差別的な言葉で傷つけられたまま、黙って我慢しろというのか。私の気持ちは? この怒りをどうすれば? この悔しい気持ちをどうすれば? 突然言葉で殴りかかってきた相手に対抗すらしてはいけないのか?
 そんな気持ちをモヤモヤと抱えながらも、どれだけ批判されようとも、私は自分を信じて自分がやりたいようにクソリプに対抗した。私が私の行動を決める決定権をもたなければ、自分の行動やその結果に責任をもてないと思ったからだ。
 人の行動を変えようとするって、本当に大きなことだ。そのひと言が、相手の人生を変えてしまう可能性があること、そしてそれに対して他人は責任を取れないことを、誰もがもっと自覚するべきだと思う。

 アンチ#KuToo の人たちにより「対抗する人」=「話を聞かないやつ」と決めつけるような状況をつくられてしまった。仕方なく「対抗しない」ことを選んでいたかもしれないが、もしそうしていたら、私の意思に反しているし、これも強要のひとつだと思う。私はクソリプに「対抗する」のか「対抗しない」のかを選べたわけで、結果前者を選んだ。クソリプに対抗しまくって起こったことは私に責任があるだろう。

 日本には、こういったことが本当に多いと思う。様々な選択肢があるわけではなく、そうするしかなかったからそうしたのに「それを選んだ自分が悪い」と匿名で責める。自己責任であることとやむを得ない場合の区別がまったくついていない。
#KuToo のヒールやパンプスだってそうだ。自分で選んで履いている人ももちろんいるが、そうでなく会社から義務付けられている人まで「自分で選んで履いていたんでしょ」と言われてしまう。その人は会社で決められた規定に従っていただけだ。むしろ褒められるべきことなのではないか? 学生の頃から散々、規則は守らなければいけないと教えられたのだ。なぜそれが社会人になると自分の意思で履いていることにされるの? そうするのは誰?そこに様々な圧力があったことをなぜ認めようとしないの? 認めないのは誰?
 でも、私はそれが誰なのか特定できない。私をバッシングする人はいつも匿名。得体の知れない人たちに対抗している自分をたまに不気味に感じる。

 この本のためにツイッターのアプリから取り出したクソリプ集。よく読んでみると、私が対抗しているのは日本全体の強要という空気なのかもしれない。自分は我慢しているんだからみんなも一緒に耐えましょう、という空気。それじゃ誰も救われないから、この空気を私が変えようとした時、我慢している人たちには私が風紀を乱すようなわがままな人に見えたんじゃないか? 「伝統」を変えてしまう、過激な人だと思ったんじゃないか? 空気からはみ出すことが怖いから、(私や女性が)自ら楽しんで選んだことにしたいんじゃないか?
 本当は辛い思いをしている人がいることを知っていたくせに。女性が「パンプスとかヒールって足が痛い」、と言っているのを耳にしたことがあるくせに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?