旧統一教会と宗教改革 

 宗教改革はキリスト教の信徒たちが自ら始めた改革運動です。16世紀の中世ドイツ(神聖ローマ帝国)においてキリスト信徒たちは既存のキリスト教会や司祭、そしてローマ教皇を批判しました、何故なら彼ら聖職者たちは信徒たちに対し、魂はカネで救済されると宣伝し、特別の物品を販売し、本来の宗教行為をないがしろにしていたからです。それは宗教に名を借りた詐欺行為でした。この改革の指導者としてマルチンルターが有名です。

人は宗教に救いを求める場合があります。それは現世では解決不能なこと、あるいは解決不能と思われることに直面し、衰弱し、絶望する時です。そんな時、人は宗教に救いを求めます。

キリスト教の教義では魂の救済は祈りや悔悛や善行の積み重ねによって行われます。それは魂の強化、魂の純化であり、純粋な精神活動です。恐らく世界に存在する宗教のほとんどはこの類の宗教行為を信者に薦めているでしょう。そしてそんな信者を教え、導くための存在として聖職者という特別な人種が存在しています。

しかし当時のローマ教皇や司祭たちはカネもうけに夢中でした。魂は祈りや悔悛だけでは無く、カネでも救済されると宣伝し、贖宥状(いわゆる免罪符)を信者たちに販売していたのです。それを購入しさえすれば魂は救われるという、誇大宣伝です。キリスト教の教義から言えば、それは誇大広告というよりも詐欺行為です。贖宥状は一つ50万円前後であったということです。

当時の司祭は詐欺師といえます。彼は洗礼や祈祷会や説教や告解などの本来の宗教行為をおろそかにし、あるいは形式的なものとして扱い、その代り贖宥状の販売に精を出したのです。そしてその売上高を上げるために司祭は<奇想天外な物語>をひねり出し、信者たちを言いくるめる。弱者である信者たちは勿論、その説明を無条件に信じました。

キリスト教徒たちは贖宥状に群がりました。彼らはこの贖宥状を購入すれば煉獄(天国と地獄の間にあるという苦しみの場所)から逃れられるという司祭たちの甘い言葉に従い、贖宥状を購入したのです。祈りや悔悛や善行などの宗教行為よりもカネを貢いだ方が手っ取り早いと、彼らは贖宥状を買いまくりました。

人々が認める宗教は最早、そこには存在しません。教会は信仰の場というよりも悪徳商店と化していたのです。それは信仰の骨抜きでした。聖職者自らが信仰を踏みにじっていたのです。司祭は司祭としての存在価値を自ら潰していたのです。

ルターたちはローマ教会や司祭たちのそうした欺瞞を糾弾しました。教会の腐敗や宗教行為の形骸化や贖宥状のいかさまを暴露したのです。カネもうけを止めろ、初心に戻れ、聖書に従え、そして本来の宗教行為を取り戻せ、と。彼らのこの主張は西欧全体に広まり、キリスト教の改革は大きな運動となりました。

その結果、キリスト教は二派に分裂します、既存のキリスト教を信ずる信者(カトリック)とそれを否定し、新しい教義に従う信者(プロテスタント)とにです。そして二派は激しく対立し、西欧各地で壮絶な戦争が幾度も引き起こされました。

ルターの告発から約30年後のことです。ローマ教会は公会議において贖宥状の販売禁止を決めました。ローマ教会は反省し、自己改革を行ったのです。信仰とカネを分離すべきという、この決定は宗教行為において画期的なことでした。魂の救済はひとえに精神活動によるものとなったのです。これは今日、一般の宗教観として認められています。(この場合におけるカネは喜捨とは違います)

そしてその後、信者たちはカトリックであれ、プロテスタントであれ、救済をカネで買おうとはしなくなりました。キリスト教会における悪徳商法は消えたのです。司祭は本来の聖職者に立ち戻り、悩める者に寄り添い、そして祈祷や説教などの宗教行為を通じて信者を導くことになりました。そして今日、信仰に名を借りたカネの集金は禁じられています。

宗教改革の結果、西欧人たちが手に入れたものは宗教行為の規定でした。宗教行為が問題とされ、それは自由であるとともに限界もある、ということが明確になったのです。何でもありの宗教行為は禁じられました。特にカネによる救済という詐欺的な宗教行為は追放されたのです。

さて日本国憲法は宗教に関してどのように定めているのでしょう。憲法は国民の<信仰の自由>を明確に保障しています。誰でもどの宗教を信仰しても良い、どの宗派に属してもいいのです。聖職者もどんな宗教、宗派を設立しても良いのです。そして信教の自由を保障するために宗教教団への国の関与を禁じています。それは重要なことです。

一方、憲法は<宗教行為の自由>についても述べています、宗教行為は自由である、と明確に謳っています。しかし、です。憲法は宗教行為に関して自由を認めるあまり、聖職者に対しほとんど絶対の自由を与えてしまっている、何でもありの宗教行為を許してしまっています。宗教行為に一定の歯止めがかかっていないのです。野放し同然です。それは実に危険なことです。

この点において憲法は片手落ちといえます。というのは憲法が聖職者の権利だけを認め、しかしその義務を明確化していないからです。信仰の自由は絶対的な自由で結構ですが、宗教行為の自由は条件付きであるべきです。つまり宗教行為とは救済を求めるための手段です、目的を叶えるためだからと言って手段を択ばず、ではいけません。規定が無ければ聖職者はやりたい放題となり、信者を食い物にする恐れがあるからです。現行の規定は紙のように薄く、あいまいであり、それが聖職者を詐欺師と化すのです。

宗教行為においても信者の生命、財産、尊厳は保障されなければいけなません。この点、現行憲法は改正されるべきです。改正は信仰の自由を侵すことではない、しかし悪質な宗教行為を根絶するためです。それは宗教行為を明確化することです。信者の保護です。憲法は教団を保護するだけではなく、同時に信者をも保護しなければいけません。

これまでの判例では信者の生命や身体に危害を及ぼす宗教行為は禁じられています。当然のことです。しかし信者へ経済上の危害を及ぼす宗教行為についてはあいまいです。カネに関する明確な基準がありません。ですから邪教は蛇のように信者の心の中に忍び込み、信者からカネを巻き上げるのです。

法治国である日本において憲法は国民の支配者であり、国民の幸福を目的とします。信者も日本国民です。信者を不幸にする、そして信者の家庭を破壊するそんな教団を憲法は許してはいけません。国民の幸せはいかなる自由にも優先しています。

日本国憲法は宗教行為を明確に規定すべきです。聖職者の行使できる宗教行為とそうでない悪質な宗教行為とを明らかにすることです。これが詐欺的な行為から信者を守る確かで、効率的な方法です。

何故、憲法に明記すべきかと言えば宗教行為は不変的なことであり、一時的なことではないからです。宗教行為の規定は10年後も100年後も生き続けるものです。ですからそれは憲法に明記するに相応しい。そしてこれは同時に日本国の宗教観を世界に明示することでもあります。さらにこれまで誠実に本来の宗教行為を続けてきた聖職者たちに誇りと自信を与えることになるでしょう。

しかし憲法の改正だけで済ましてはいけません。学校教育も改められるべきです。というのは旧統一教会に限らず、邪教による誘惑は国内に満ちているからです。教師は(中学校や)高校において生徒たちに信教の自由と共に宗教行為の規定についても説明すべきです。信教とカネの分離をわかりやすく解説すべきです。それは子供たちが邪教の誘惑に負けないようにするためです。小冊子の配布でもいい、来年度から早速、始めるべきでしょう。

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