中世の本質(30)国自治

 江戸時代前期、大名と農民たちはほぼ対等な関係を維持し、大名は村の自立を認めながら、村を支配していました。しかし江戸時代後期になりますと状況は一変します。というのは大名が権力を乱用するようになるからです。彼は農民たちとの双務契約を一方的に破棄し、増税を命じ、あるいは専売制を布いたのです。それは農民たちを苦しめました。
 当時、大名たちは藩の財政難に直面していました。貨幣経済の発達が農本主義にしがみつく武家を襲っていたのです。そして性悪な大名はその責任を農民たちに転嫁する。大名はかつて農民と約束していた年貢の税率をいとも簡単に反故にして、農民に重税を課すのです。
 当然、農民たちは大名に抗議し、そして彼らの抵抗権を揮います。しかし農民は武士のような武力を持っていません、その抵抗権には限りがあり、武力を握る大名にはかないません。
 結局、農民たちは大名によって財産を根こそぎ奪われ、塗炭の苦しみを味わうことになる。多くの大名は古代王のように振る舞ったのです。すなわち中世の人権(領主権、武士権、農民権)は不安定であり、特に農民権は弱く、しばしば大名によって侵されていたのです。
 それは人治の世界である中世の限界でした。しかし人類は強かです。人類は人治をやがて廃絶するのです。それは現代化革命においてでした。そして中途半端であった中世の人権を強固な人権へと転じたのです。
 例えばそれはフランス革命です。フランス革命は中世の人権を劇的に変えました、それが<基本的人権>です。それは現代世界における普遍的な人権です。それでは何故、フランスにおいてそれが可能であったのでしょう。
 中世フランスでは全国各地に点在する都市に自治が与えられていました。それは中世日本の村々に自治が与えられていたように、です。都市の自立が可能であった理由はいくつかありますが、例えば都市は中世王と双務契約を結んでいました。
 中世王は都市を保護します、一方、都市はその見返りに中世王に商業税や兵士を提供しました。ギブアンドテイクです。そのため封建領主は都市が自分の領国に存在するにもかかわらず、手出しはできません、支配できないのです。それは都市の封建領主からの自立でした。
 あるいは都市は都市独自の軍隊をそなえていました。そして外部の敵と武力をもって戦いました。あるいは都市は莫大なお金と引き換えに自立を死守することもありました。いずれにせよ都市は結束の堅い共同体であり、高度な自治を築いていたのです。
 それは(日本史における)戦国時代の自治都市、堺(大阪府堺市)のようなものでした。しかし堺と違って西欧の多くの中世都市は数世紀にわたり、あくまでも自立を貫き通したのです。そうした強靭な自立都市は富を蓄積するとともに中世フランスに自治精神や人権というものを深く根付かせていったのです。
 フランス革命は支配者層の内部争いから始まりました。それは中世王と封建領主たちの税をめぐる争奪戦でした。この小規模な争いはやがて中世の人治体制を覆す、そして法治体制を樹立するという世紀の革命に転じていきますが、そのきっかけとなったものは当時の国際情勢、当時の国内情勢、当時の農民の生活状態、あるいはイギリスの平等主義の思想の流入などいろいろ考えられますが、その基調には都市自治が培った自治精神の存在があったと思われます。それは革命を裏打ちする強靭な下地であったからです。
 特権階級の排除、新しい支配者としての法の導入、法の下の平等、そして人権の確立などが革命の核心です。その結果、特権階級(ブルボン王家と封建領主たち)は廃絶され、そして憲法が制定されました。人治から法治への大転換です。そして法治とは法の下の国民による自治です。ですから革命の成就にとって自治精神は必要不可欠なものであったのです。自治精神無くして法治は成立しません。
 都市自治と村自治とは自治を行ったという共通点を持ちます、それでは両者の違いは何かといえば、それは都市自治と国自治の間の距離はとても近く、しかし村自治と国自治との間の距離は遠かった、といえるかもしれません。自治の規模や力や仕組みや緻密さなど、村自治と国自治との違いは明らかだからです。
 それでも日本において村自治は国自治(民主政治)へとつながっていきました。村自治と国自治との距離を縮めたものが西欧列強の日本進出です。それは特権階級の廃止、憲法の制定、国会の設立、三権分立の思想、そしてフランス革命の精神などを日本に持ち込みました。そして重要なことは当時の日本人がこれらの思想を咀嚼し、理解することができたということです。
 何故なら日本にはそれらを理解する素地があったからです。つまり日本人はすでに、自律や自治の精神を育んできていたからです。ですから西欧人たちが持ち込んだ新しい思想を理解し、村自治を一気に国自治へと転じていくことが可能であった。国民は憲法の制定や議会の設置を単に形式的なことで済まさず、実際に活用することになったのです。
 明治維新の革命家たちは版籍奉還と廃藩置県を断行し、全国の村の垣根と藩の垣根をすべて取り払い、国家体制を分権制から中央集権化しました。その結果、村自治は一気に広がり、融合し、国自治へと変身していったのです。村法は憲法となり、寄り合いは議会と化しました。
 そして国民は村内ではなく、国内における自由、住居の自由、職業の自由、言論の自由などを獲得したのです。それは明治維新の美しい業績です。国自治は村自治の延長上にあったのです。
 中世ドイツや中世イタリアも国自治へと踏み出しました。両者は中世の分権国でしたが、フランス革命の影響を受け、さらにナポレオン軍による侵略に屈し、彼らの中世支配は切り崩されて、その結果、現代化へと大きく舵を切ることになったのです。
 分権体制は廃止され、中世の特権階級も整理され、そして法を支配者とする民主体制が追求されたのです。両国とも都市自治をすでに経験していましたから、民主化は可能でありました。
 但し中世フランスも中世ドイツもその他の西欧諸国も問題もなく、速やかに民主国に到達したというのではありません。どの国も半世紀から一世紀をかけ、大きな犠牲を払い、紆余曲折を経てようやく到達したのです。例えばフランスやドイツなど、中世国の崩壊後、彼らの国には再び、独裁者が登場しています。古代国の再現です。民主化は簡単なものではありませんでした。
 いずれにせよ日本も西欧諸国も中世から現代への歴史的な転換に成功しました。今日、アジア、アフリカの中において日本だけが法治国として成立しています。何故、日本は法治国と成り得たのか、何がアジア、アフリカの国々と違っていたのか、今日でもその原因を理解している人はとても少ない。特にアジア、アフリカの人々にとっては永遠の謎かもしれません。
 日本や西欧諸国において古代の悪は中世化革命が潰し、そして中世の悪は現代化革命が葬り去りました。人類の悪は大枠で制圧されてきたのです。それは日本や西欧諸国にとって名誉なことであり、人類の進歩を証明するものです。
 しかし悪の制圧は細部において徹底することは難しく、21世紀の日本や欧米においても様々な悪事が今も起こっています。その点、彼らは完璧な法治国とはいえません。不正や汚職は時々、事件としてマスコミをにぎわしています、そして未完成な資本主義、終わりの見えない男女格差、人権(特に尊厳)の無視なども大きな問題として残り続けています。
 それでも少しずつですが、これらの民主国はよりよい法治主義や民主政治を目指して試行錯誤を続けています。その点、現代化革命は今も継続中である、といえます。

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