中世の本質(24)現実主義

 双務契約は<現実主義>をももたらしました。現実中心主義です。そして形式主義の否定です。
 武家は現実を尊重し、現実をもとに物事を決めました。例えば保護(恩賞)にしても戦役(忠誠)にしてもそれは現実(事実)をもとに行われることであり、しかし形式的なことでもなければ、空想的なことでもなく、そして恣意的なことでもありません。物事は目の前の事実によって決定されるのです。
 例えば、中世王が公正な領地安堵を下したのかどうか、あるいは武士が激しく敵と戦い、戦功をあげ、忠義を貫いたのかどうか、それらはすべて現場を検証することによって決まります。武士は戦場においてその所在や戦功を証明するために旗指物を身につけ、そして軍監という者を検証人として配置していました。
 中世は現実主義の誕生した世界です。物事は現実をもって、そして公正な判断の下に決まります。古代国の数々の悪、すなわち形式的な事柄や非現実的な事柄は中世化革命を通じて一掃されました、そして事実が重視されるようになったのです。
 例えば物事は地位や年齢、あるいは血縁や縁故によって決められるものではなくなります、あるいは宗教(イスラム教など)の教義や古代思想(儒教など)の教条的な教えによって左右されるのでもありません。あるいは古代身分制(カースト制など)によって固定化されるものでもありません。そして裁判も特権者や占いによってではなく、証拠、証文、証人によって成立します。
 事実は重視され、そして嘘は卑しむべきものとなります。特に武家社会にあっては嘘が忌み嫌われ、事実を示すこと、事実を認めること、事実に従うことが一般的になりました。現実主義の成立です。
 但し、古代の悪がすべて完全に排除されたというわけではありません。それは中世日本や中世西欧においても多分に残っていました。形式主義と現実主義が同居していたといったほうが適切かもしれません。そして21世紀の現代国においてさえ少しでも油断すると血縁、縁故、世襲、性別などの形式主義や権力の乱用などが蘇り、現実を醜く歪めます。残念ですが、法や人権を無視し、歪める人間は後を絶ちません。
 それでも現代国にあってはそうした悪事は事件として処理されます。警察、マスコミ、そして裁判がしっかり機能しています。一方、古代国にあって悪事は事件ではなく、日常茶飯事です。警察もマスコミも裁判もそして古代王自身も悪事を働きます。
 中世の現実主義は<政教分離>に最も端的に現れています。政教分離とは特に政治の自立を意味します。政治と宗教が分離し、政治も宗教も互いに介入しないことです。
 古代国は<政教一体>でした。奈良時代や平安時代には仏法王法両輪論という古代思想がありました、それは古代王朝と仏教寺院とが協力し、治安の維持に努め、日本を統治しようとする思想です。古代王は政策を執行すると同時に、全国各地に寺院や尼寺を建立し、仏の力にすがります、そして国家の安泰を願ったのです。そして寺僧や尼も祈りを通じて、国家の鎮護を求めました。
 しかし中世になりますと様相は一変します。両者の関係は複雑なものとなり、やがて破綻します。その原因は荘園制でした。荘園制の成立は寺院を膨大な荘園の所有者としました。寺院自らが開発した荘園だけではなく、武士や農民も免税を期待し、寺院に多くの荘園を寄贈したのです。
 このことは寺僧を大きく狂わせました。彼らは増長したのです。寺院は荘園から上がる莫大な富を蓄積します。そしてその金をもとに金貸しを営み、さらに多数の僧兵を擁し、武力をも誇る存在と化します。その結果、室町時代から戦国時代にかけて寺院教団は強大化し、その勢力は近隣の大名領国に匹敵しました。
 寺僧は信仰の活動をなおざりにして、権利や権力の争奪に走っていたのです。そしてそのために古代王朝や戦国大名と争うことさえありました。寺院は増長し、信仰活動を軽んじ、現実世界の利益の争奪にのめり込んでいたのです。それは政治への介入です。寺院は最早、国家の鎮護を祈願する教団ではありませんでした。
 当時、戦国大名は領国の維持や拡大にしのぎを削っていました。そんな戦国大名にとって寺院は祈りの集団というよりも弓や刀や鉄砲を構え、彼らの進路を遮る抵抗者と映ります。実際、教団は戦国大名と合従連衡を組み、まるで戦国大名のようにふるまい、武力をもって周辺国と争っていました。
 信長の比叡山延暦寺の焼き討ちは有名です。寺僧たちは皆殺しの目にあいました。結局、寺院は武家の武力の前に敗れ去ったのです。本来の仕事である信仰活動をおろそかにした報いでした。
 宗教勢力の退潮が始まります。寺僧はこれから刀や弓や鉄砲や軍資金を捨てます、そして祈りと経典に生涯をささげることになります。その結果、政治は宗教勢力から解放され、自立します。武家は宗教の政治への介入を許しませんでした。
 秀吉も家康も寺僧を敬う点では同じです、しかし彼らの政治参加を決して認めません。政治は武家が現実を直視して行うものです。宗教の教義や寺僧の意見を参考にすることはあるでしょう、しかし政治の最終決定はあくまでも現実に即して武家が行います。
 そして寺院は穏やかな存在になりました。最早、信徒を動員して幕府に対立しようとはしません。それは不可能でした。寺院は武家によって厳しく統制されていましたから。寺僧は祈りと学問の生活に戻ったのです。教団の政治からの退場は江戸時代においても、そして今日においても続いています。
 政教分離は中世日本と中世西欧において断行された歴史的な事柄です。(武士や騎士の)武力が教団の現世勢力を圧倒したのです。古代世界を牛耳っていた宗教はその力を削がれました。そして聖職者は信仰の世界に回帰していきました。
 中世西欧において政教分離は宗教革命、30年戦争、そしてウエストファリア条約などによって遂行されました。特にプロテスタントの国々においてローマ教皇や教会はその現世勢力を急速に失っていきました。
 一方、古代国は今も<政教一体>です。有力聖職者や宗教の教義が国の法の上に立っています。それは法治ではありません。宗教勢力は直接、政治に介入する、あるいは日常生活を厳しく統制しています。
 例えば、イスラムの有力聖職者は国会議員の上に立ちます、そして国政を指導する。議員は彼の前に沈黙し、彼の意見に従います。それでは国会の存在に意味がありません。
 宗教は21世紀の今も国民を支配しています。1000年以上の昔に作られた教義が国民を縛り付けている。女性の行動は厳しく制限され、外出する時は布で体全体を隠し、目だけを出す。あるいは女性は教育の場から追放されています。
 中世を通過しなかった国は政教分離を断行していません。彼らの国には宗教の現世勢力を退治する戦国武士のような中世武士(や騎士)が遂に登場しなかったからです。それは致命的です。それ故、宗教勢力とその教義がのさばり、現実主義を許さず、政治を振り回しているのです。

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