中世の本質(17):兵農分離

  石高制だけではなく、兵農分離も中世室町時代死亡説の根拠とされています。戦国時代、戦国大名は彼らの領民を二分割しました。仕事に基付いた区分けです。戦闘を仕事とする武士を城下に常駐させ、そして米を作る農民を村に定住させました。中世室町時代死亡説の論者はこの兵農分離をもって近世という歴史が始まり、中世は室町時代で消滅したと主張します。領民の棲み分けの出現が歴史を画した、と。
  しかしこの兵農分離説も誤りです。棲み分けは中世史の一コマでしかありません、しかし歴史を画すものではないのです。
  中世は分割主義の歴史です。武家は700年間にわたり、国土も国民も国家権力も細分化してきました。先ず、12世紀の関東の地です。王民の分割が始まりました。頼朝は王民を千葉氏の領民、三浦氏の領民、北条氏の領民などに分割しました。歴史的な分割です。領民は千葉氏に従い、三浦氏に、あるいは北条氏に従います、しかし古代王に従うのではありません。それは中世の分割主義の誕生であり、古代専制主義の衰退を示すものでした。
  そして室町時代、日本国民は30数人の守護大名によって分割されました。そして最終的に国民は江戸時代、260の大名領国の領民として細分化されました。王民と呼ぶべき国民は最早、存在しません。
  領民とは武士と農民の集合体です。室町時代まで両者は共に村に住んでいました。武士は村の中に彼の領地を所有しています、そして農民を使役して、農耕を行っていました。<兵農混合>の時代です。
  しかし戦国時代、領民は分割されます。戦国大名の戦力強化策をもとに領民は武士と農民とに分割されました。村は農民だけの住む集団と化し、農民は農耕に専念する、一方武士は城下に移り、戦闘集団を形成する。兵農分離です。
  そして江戸時代、農民はさらに農民と町人(商人と職人)とに分割されます。身分制の成立です。王民は武士、農民、町人の三つの身分に区分されました。すなわち国民分割の行きつくところは身分制であった。そのために約400年が費やされたのです。
  分割主義は中世の意志です。その一つが国民分割です。国民は<王民――領民――武士と農民――武士と農民と町人>へと分割したのです。この国民分割の切れ目ない連続は中世の一貫性をわかりやすく物語っています。
   そして興味深いことですが、頼朝や秀吉などの中世王は分割主義が中世の意志であることなど知りません、それでいて彼らは一心に分割、分与の政策を推し進めていたのです。ですから頼朝たちは<分割主義の忠実な従者>であった、といえるでしょう。それは個人が歴史の掌の上で踊りを踊る踊り手のような存在であるということを示唆します。個人は歴史の大きな流れの中の一滴にすぎない。
  しかしながら研究者の方々は分割主義に全く無関心です。室町時代の兵農混合と桃山時代の兵農分離の二つに注目し、両者を対比するだけです。しかし彼らは歴史の前後に目を配らない。鎌倉時代の歴史的な国民分割や江戸時代の国民分割に注意を払わず、単に兵農分離だけを問題視する、そして兵農混合と兵農分離の違いだけを取り上げ、それを社会の一大変化と指摘し、短絡的にそれをもって歴史を区分けしてしまう。視野が狭すぎます。
  兵農分離は歴史を画する革命事ではありません。それは中世社会を変えただけです。すなわち兵農分離は中世分割史の一コマでしかありません。それだけのことです。兵農分離の論者は歴史の一点だけではなく、広く歴史を観察し、歴史の連続を精確に検証すべきです。ここには分割主義という中世の本質への理解はどこにもありません。
  もしも兵農混合が中世であり、兵農分離が近世であると(短絡的に)処理するなら、幕末の兵農混合の時代は中世と呼ばなければいけません。というのは当時、八王子(東京都八王子市)出身の農民は刀を身につけ、新選組と称し、戦闘に従事していました。長州でも兵農混合は行われ、農民ばかりか町人までもが武器を取り、戦闘集団を形成していました。
  武家はむしろそんな兵農混合をあおっていた。武家は兵農混合を禁じるどころか、それを助長していたのです。信長や秀吉の行った兵農分離策はあっさりと否定されていました。そしてその結果、兵農混合は全国的な流行となりました。日本は兵農混合の国へと逆行していたのです。
  するとどうでしょう、幕末は室町時代と同じ兵農混合の時代です。幕末は中世ですか、日本は中世に戻ったのですか。さてどうでしょう。もしもそうであれば日本の歴史は室町時代が中世、江戸時代が近世、そして幕末が中世ということになります。しかしそんな日本史などありえない。これでは日本の歴史は滅茶苦茶です。
  兵農混合であろうと兵農分離であろうとそれは中世分割史の一コマでしかない、つまり兵農分離は歴史を画するものではありません。この事実を無視するからこのような不合理な歴史が生じてしまうのです。
  兵農分離にせよ石高制にせよ制度の変化は社会を大きく変える力を持っていました。それは確かです。しかしそれだけのことです。国家が根本からひっくり返ったのではありません。社会の変化と歴史の変化は別物です。兵農分離が起きようが石高制が布かれようが、国家支配者や国家体制や国家の政治形態は依然として変わらず、鎌倉時代以来同じものです。何の代わりも無い。

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