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駒形一路先生「仰げば 天守」No.26 2022.4.12

高等学校国語科の教壇に立たれる駒形一路先生のご随想「仰げば 天守」(No.26)を、先生のお許しのもと、ここにご紹介いたします(この拙文の最後にファイルを添付してあります)。なお、前回のNo.25からの続きになりますので、前回の分を未読の方は、以下リンク先からダウンロードのうえ、あわせてお読みください。

ウクライナにも「彼女」はいる。75 年の時間を超え、『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)は昨年末発刊されたが、こんな気持ちとともに読み進めることになるとは、誰も予期してはいなかったはずだ。
(駒形一路先生「仰げば 天守」No.26 2022.4.12)

「彼女」が誰であり、どのような状況にあるかは、「仰げば 天守」本文をお読みください。私のほうで余計な言葉を付け足すのはやめておきます。

ただ、一つだけ。

文学は、徹底的に個別具体的なものを描きます。ところが、それが普遍性を持つことがある。あるいは、普段は交わることのない自我と自我とを、結びつけることがある。

個別を叙述しながら普遍性に至る。

個を描きながら、間主観的な共同性を立ち上げる。

僕はこの逆説こそが文学の持つ最大の特徴だと思っているのですが、駒形先生の今回のご論考は、まさに、そうした思いを裏づけてくださいました。いま、この時代に文学を読むことの意味について、あらためて確かめることができたのです。


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