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〈表現〉で味わう文学・4 ~坂口安吾「風博士」 ~

 このシリーズでは、僕が読んだ文学作品の中で「お!」って思った表現言い回しについて、ゆる~い感じで紹介していきたいと思います。
 ストーリーを楽しんだり、心情や主題などを解釈するのも文学を読むことの醍醐味ではあります。でも、「気になった表現についてあれこれ考えてみる」なんていうのも、文学の、なかなかにオツな味わい方なんですよね。
 
 今回は、坂口安吾「風博士」を選んでみました。ここ以降の内容は思い切りネタバレになってしまうので、まずは以下のリンクからこの作品を読んでみてください。短い作品なので、すぐに読めるはず。すごい作品、ですよ……?(ゴ、ゴクリ…)

ナンセンス文学

 ……ね?
 すごいでしょ、この作品…。
 端的に言うならば、何も言っていない。人間の素晴らしさも、愛の哀しみも、平和の尊さも、そして、人生の真理も。
 ホントーに、何の内容もない(笑)。
 清々しいまでに……!

ナンセンス【nonsense】( 名 ・形動 )
意味のないこと。ばかばかしいこと。また、そのさま。相手の発言を否定し、くだらないからやめろという気持ちで使うこともある。ノンセンス。 「 -なことを言うな」 「 -なストーリー」
(三省堂『大辞林』第三版より)

 まさに辞書の言うところの「意味のないこと」あるいは「ばかばかしいこと」としての、「ナンセンス」の語義そのものです。
 こういう言葉で、豊かな意味を産出するはずの文学作品をくくってしまうのはよくないかもしれませんが、坂口安吾「風博士」は、まさに"ナンセンス文学"の典型ではないでしょうか? 

細部に全体が宿る!

真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。

 どうですか、この表現!
 簡単に言ってしまえば、語り手は、〈真理は信じるべきだから、信じろ!〉という、トンデモナイ理屈を読者に押しつけている。オイオイオイ、っていう(笑)
 次に、こんな表現はどうでしょうか?

見給え、源義経は成吉思汗となったのである。成吉思汗は欧州を侵略し、西班牙に至ってその消息を失うたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖を卜したのである。之即ちバスク開闢の歴史である。しかるに嗚乎、かの無礼なる蛸博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論を説えたのである。彼は曰く、蒙古の欧州侵略は成吉思汗の後継者太宗の事蹟にかかり、成吉思汗の死後十年の後に当る、と。実に何たる愚論浅識であろうか。失われたる歴史に於て、単なる十年が何である乎! 実にこれ歴史の幽玄を冒涜するも甚だしいではないか。

 義経がジンギスカンになったという"伝説"は有名ですが、その義経=ジンギスカンがピレネー山脈を越えてバスクの始祖となった…などとめちゃくちゃな持論を展開し、さらにそれを蛸博士に批判されると、激高して「失われたる歴史に於て、単なる十年が何である乎! 実にこれ歴史の幽玄を冒涜するも甚だしいではないか」と詭弁を弄する。自説につじつまの合わないところがあることを指摘され、〈10年くらい計算が合わなかったからといってなんだ! 歴史のロマンを知れ! くだらん!〉と、まさに逆ギレしちゃっています。
 さらに、

たとえば諸君、頃日余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てたのも彼の方寸に相違ない。

なんて記述、内容もさることながら、これが昭和1ケタのギャクだと考えるだけでもオモシロイ。
 もう、内容の一つ一つ、表現の一つ一つ、ネタや言葉の選び方の一つ一つが、ことごとくナンセンスなんですね。
 そしてもちろんこの"細部のナンセンス"は、全体のナンセンスを象徴している。本文全体の、つまりはストーリーそれ自体のナンセンスを、ミクロな細部が象徴している。
 逆に言えば、ものすごく緻密に構築された物語であることがわかると思います。

虚構としての創造

 しかし何といってもこの作品の「おおお…!」ってなるところは、その最後、つまりは、

この日、かの憎むべき蛸博士は、恰もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。

という叙述ですよね。
 この一文が持つ爽快感! 
 それはおそらく、ここまで積み重ねられてきた無数の"ナンセンス"が、ここにおいて、何の矛盾もなく一つの完璧な物語世界として結晶するそのことによってもたらされる気持ちよさなのだと思います。
 ここまでずっと、「おいおいおいおい…なんだコレ?」って笑っていたのが、この一文で「…!」となる。
 そして僕たち読者は、ここに、

完璧な論理によって統括された、しかしながら何の意味もない虚構の世界の創造

を目の当たりにするわけですね。
 そして僕は、ここでゾッとするわけです。
 世界の創造とは、総じて、このような"無意味"なものなのではないか。
 僕たちの生きるリアルと、「風博士」の虚構世界とは、実は合わせ鏡のような関係なのではないか、と。
 例えば仏教思想において、この世を構成する森羅万象は、すべて実質のない空っぽなもの――すなわち〈空〉であるとされます。しかしその〈空〉は、あらゆる現象と繋がり、森羅万象――すなわち〈色〉を織り成している。
 意味のないモノの連なりが、僕たちにとってのすべてである。
 もしかしたら「風博士」における徹底したナンセンスは、そのような世界観を象徴する、非常に哲学的な主題なのかもしれません。〈了〉

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