〈表現〉で味わう文学・1 ~寺田寅彦「どんぐり」~
このシリーズでは、僕が読んだ文学作品の中で「お!」って思った表現や言い回しについて、ゆる~い感じで紹介していきたいと思います。
ストーリーを楽しんだり、心情や主題などを解釈するのも文学を読むことの醍醐味ではあります。でも、「気になった表現についてあれこれ考えてみる」なんていうのも、文学の、なかなかにオツな味わい方なんですよね。
さて、というわけで記念すべき(?)第1回は、寺田寅彦「どんぐり」。
短い作品ですから、ぜひ読んでみてください。
今回のしみる表現①
……せ…切ない…(´;ω;`)ウゥゥ
なんかもう、こんな抑制の効いた淡々とした文体で、ここまで胸にしみるエッセイを書けるなんて、寺田寅彦って本当にすごいな……って思うのですが、そんな中でまず注目した表現が、
睡蓮もまだつめたい泥の底に真夏の雲の影を待っている。
という一文。
いや、パッと見なんてことはない擬人法なのかもしれませんが、僕、こう見えて(どう見えて?)、実は睡蓮を育ててるんですね。で、この睡蓮っていう植物、かなり強いヤツで、ずっと放置したままでも毎年毎年わさわさ葉を茂らせる……のですが、花……そう、花を咲かせるのが、何気にかなり難しい。日照時間をたっぷりと確保しないと、絶対につぼみさえつけてくれないんですよ。
そんな睡蓮の、太陽を恋しく思う気持ちがこの擬人法には込められている。
そしてさらに、〈夏の暑さを待っている〉と書けばすむところを、「夏の雲の影を待っている」という、夏の暑さそのものよりも夏の暑さを感じさせる象徴的な表現をサラッと組み込んでるところなんて、ニクいじゃありませんか……!
今回のしみる表現②
僕、このエッセイでいちばん好きなシーンが、語り手「余(=私)」の妻がどんぐり拾いに興じる中、余が「いったいそんなに拾って、どうしようというのだ」と聞いたところ、妻が、
「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」
って答えるくだりなんですね。
理由や目的なんかない。
ただそれをすることがおもしろいからそれをする。
ひたすらにどんぐりを拾うことがおもしろいからどんぐりを拾う。
思えば子どものころ、遊びのすべてはただただそれをすることが楽しくてそれをしていたんじゃありませんか?
ここ、何気ない一言に過ぎないけれど、人にとって遊びというものが持つ本質を、サラッと、それでいて読み手の心に深く印象づける、珠玉の表現だと思うんです。
今回のしみる表現③
まだまだあります。
どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔の花がなんべんか咲いた。
この表現、すごくないですか?
愛する妻が亡くなって、それから幾年かの時が経ったことを、〈それから数年が過ぎた〉などという陳腐な言い方をせずに、「お墓の土には苔の花がなんべんか咲いた」と間接的に表現する。
そして、そこで筆者が選んだのが、「苔」あるいは「苔の花」であるというのも、それが持つ雰囲気の効果もあり、非常に深い味わいを生んでいる……。
今回のしみる表現④
最後になります。
鵯(ひよどり)の鳴く音に落ち葉が降る。
いや、もう、この一文にたどり着いたとき、僕は感動で震えました。
だって、「鵯(ひよどり)の鳴く音」という原因によって「落ち葉が降る」という結果が生じた、だなんて、そんなこと誰にも思いつかないじゃないですか!
もちろん現実的には、そんな因果関係は成り立ちません。
でも、語り手の主観的世界においては、それは紛れもない事実なんです。
そして、読み手がその表現に「おお…!」と思ったなら、読み手も語り手の主観的世界に引き込まれ、そして、世界を解釈する新たな法則(=コード)を手にしたことになる。
つまりは、認識の革命です。
僕は不勉強にして、このような、本来は因果関係のないもの同士に因果関係を解釈する、という表現技法をどのような名称で呼ぶのかを知りません。
でもこの表現に出会い、世界を見つめる新たな窓を手にできたことは、間違いありません。
表現は、それ自体が、新たな世界観の創造なんですよね……。
それでは、今回はここまでです。
「〈表現〉で味わう文学」シリーズ、これからもよろしくお願いいたします(^▽^)/
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