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澤田英輔・仲島ひとみ・森大徳編『中高生のための文章読本』(筑摩書房)を読んで

読解力向上における「経験」とは

先日、Twitterに、以下のツイートを投稿した。

本書、『〈読む力をつけるノンフィクション選〉中高生のための文章読本』(筑摩書房)の、いったいどのような点が、私にとって「待ち望んでいた一冊」であったのか。

私は、大学入試対策の予備校で教壇に立つ現代文講師である。つまり、「現代文の成績を上げ、少しでも生徒が合格に近づけるよう手助けをする」ことを生業とする人間である。

……とは言うものの、子どもたちの指導に携わり約20年が過ぎた今でも、実は、「現代文の成績を上げる」ということがどういうことなのか、つかめてはいない。むしろ、指導年数を積めば積むほど、わからなくなってしまう。そもそも、「文章を読める」とはどういうことなのか。あるいは、それを指導することは可能なのか。自己否定めいた言い方にはなってしまうが、私には、それらの問いに答えることのできる確固たる言葉はない。これはきっと、現代文の指導にかかわる少なからぬ方々と、分かち持つことのできる感覚なのではないかと思う。

ただ、そうは言っても、一つ、「これだけは……!」と思うところのものはある。それは、経験の重要性である。

経験――それも、言葉を通して、新たな知識や教養、常識を身に着けるという経験。さらに言えば、それらを自分自身の問題として、真摯に、切実に考えるという経験。

私は、現代文の読解力においては、それまでの人生における、このような意味での経験の積み重ねが決定的な意味を持つと考えている。「読み方」や「解き方」といったものを全否定するつもりはないし、事実、その指導がきっかけで成績の向上する生徒もいる。私も、最低限のことは教える。けれども、やはり根本は、経験だと思う。

1年後、3年後、5年後の読解力のために

極端な話、日本が戦争をした相手国の一つがアメリカであったことを知らない子どもに、例えば、

戦後、日本における反米感情は短期間で弱まった。

などという文章を読ませたところで、その内容は、ほとんど腑に落ちないだろう。たとえ「日本における反米感情は」が主語であり、「弱まった」が述語である、と文法的な構造が理解できたとて、きっとその分析は、「読めた」という実感にはつながらない。いや、私の経験則から言うなら、そもそも、興味のない、あるいは前提知識のない事がらを述べる文章を前にした子どもは、主語も述語も把握はできない。その文章の内容が、まったく頭に入ってこないからだ。活字が目から滑って、どこか宙へと霧消してしまうのである。

逆に言えば、どうか。

この文章を読んだ子どもが、日本はかつてアメリカと戦争をし、完膚なきまでに叩きのめされたという知識を持っていたとしたら。あるいは、原子爆弾や無差別爆撃によって、この国で暮らしていたおびただしい数の人々が無慈悲にも殺されたことを知っていたなら。さらには、そうした知識を手にした際、自分なりにその出来事について考えてみたり、誰かの考えや意見に耳を傾けた経験があったならば。「戦後、日本における反米感情は短期間で弱まった。」という文章は、おそらく、「どうして!?」という驚きとともに、この子どもの脳裏に鮮烈に焼き付くことになるだろう。そうして、本文のその先に書かれているであろう、「どうして」に対する答えを見つけようと、丹念に文章を追うことになるはずだ。

書き手の問題意識に、反応する心。

読解力とは、何よりもまず、こうした心理的な動きに支えられるものではないだろうか。そしてそれを可能にする一つの大きな条件が、経験であるのだと思う。

『中高生のための文章読本』

冒頭に引用したツイートで、『中高生のための文章読本』について「待ち望んでいた一冊」と述べた理由は、もう、おわかりいただけたかと思う。

本書は、いわゆるアンソロジーであり、編者たちの選んだノンフィクションの文章の一部が抜粋されている。ノンフィクションに限定しているのは、おそらく、子どもたちが自然とそれを手にする可能性が、物語に比べて格段に低いからであろう。つまりは、子どもたちとノンフィクションとの出会いの確率を、少しでも高めたい、そうした意図が込められているのではないか。

本書に所収されるノンフィクションは、皆、大学入試の現代文や小論文に出題される、頻出テーマを扱うものばかりだ。しかも、中高生、いや、頑張れば小学校高学年の生徒にも読めるような書き方であると同時に、極めて高いクオリティを有する、そんな珠玉の文章のみが並ぶ。

これが、いい。

良書を紹介するアンソロジーは多々あれ、本書のように、ノンフィクションを手にしたことのないような子どもたちでも読める、そんな文章ばかりを集めた一冊というのは、なかなかにない。一編ごとの長さも、子どもたちが「これくらいなら、読めるかな…」と思える、適量だ。

本書に目を通し、下段の「そういう人ってどういう人?」「このカギカッコ意味ありげ」等の読解のポイントに、しばし立ち止まってみる。

あるいは、各文章の紹介後に示される「手引き」に導かれて、自分なりに考えてみる。

それは、いずれ挑戦せねばならない、大学入試レベルの高難度の文章を読むうえで、決定的な経験となることだろう。ましてや、引用された文章を収めた本、さらには、「もっと読むなら」に紹介された関連書籍などに手を伸ばすことができたなら……!

哲学の歴史のなかで、それを対象に内在するものとして想定しようが、逆に主観に属するものとして想定しようが、普遍性というものを措定し、追究するという一連の流れがある。逆に、普遍という観念に疑義を呈し、知や思考の相対性を主張する言説もある。いわゆる〈普遍主義/相対主義〉の相克だが、こうした難度の高いテーマを扱う評論を読む際、その読み手がかつて、本書に所収されているこのような文章のこのような文言について、自分なりに熟考した経験があったとすれば、どうか。

強調しておきたいことがあります。
歴史の語り、つまり解釈は決してひとつではないということ。しかし、なんでもありでもないということ、これです。

成田龍一『戦後日本史の考え方・学び方 ――歴史って何だろう?』(河出書房新社〈14歳の世渡り術〉)

あるいは、かつては敬遠されていたきらいのある、ジェンダーやセクシャリティを主題とする評論が、近年、大学入試でも出題されるようになりつつある。したがって、私もそうしたテーマを論じる文章を授業で扱うわけだが、その際には、

「ジェンダーというのは、社会的に作られた性のことで…」

などと解説することになる。だが、そんなとき、私はどうしても、

(こんな一問一答的な"説明"をしたところで、この概念の重要性やアクチュアリティを、生徒たちに伝えることはできないのではないか……)

と不安になってしまうのだ。そしておそらくその不安は、残念ながら、正しい。

けれどももし、この説明を聞く生徒が、『中高生のための文章読本』に紹介されている、オードリー・タン『オードリー・タン 自由への手紙』(講談社)を読み、ジェンダーやアイデンティティ、LGBTといったテーマを知っていたならば、さらにそうしたテーマについて、自分自身のこととして考えるという経験を有していたならば、どうだろうか。

大学入試対策の予備校で現代文を指導する人間として、かつ、自分の指導の限界を知る人間として、多くの子どもたちが、本書『中高生のための文章読本』(筑摩書房)を、可能な限り早い段階で読むことを強く期待する。本書を通じて得た経験は、きっと、1年後、3年後、5年後、読解力というかたちで結実することになるだろう。

ただ、最後に一つだけ付言しておく。今回は、あくまで予備校講師として本書を推薦した。が、予備校講師としてではなく一人の大人としては、可能な限りたくさんの子どもたちに、

楽しいから、きっと世界が広がるから、ちょっと目を通してみようぜ?

と伝えたい。ぱらぱらとめくってみて、まずは、気になったページだけでもかまわないから読んでみてほしい。もしかしたらそのひと手間が、人生にとってかけがえのない瞬間になるかもしれないよ、と。

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