菅野真文「「困難」なのは誰なのか」を読んで
思うところあり、菅野真文の論考「「困難」なのは誰なのか」『教育』12月号No.935(旬報社、2023年)を読む。
論者である菅野はいわゆる「教育困難校」で教鞭をとる高校教諭で、専門は、地理歴史・公民である。
自分のこととして
菅野は言う。学習における様々な主題において、生徒たちが、それを「自分事と考える」ことのできるような授業の重要性を(p. 26)。「社会の実態を自分事として捉えたうえで、どう生きるかを考える学習」の必要性を(p. 27)。
当事者であるという意識の涵養。
教える場や科目こそ異なれ、私もまた、現代文の授業の組み立てにおいて、いま、そうした観点を最も強く意識している。
その文章を通じて筆者が問いかけていること、訴えていること──それらは、決して抽象的な空論でもなければ、対岸の火事でもない。授業をする者、そして授業を受ける子どもたちにとっての日常と、まさに地続きの地平で受け止め、考えなければならないことなのだ。
そしてそう思うことができれば、現代文という科目は、子どもたちにとって、自分のいま、そして自分の未来について考えるためのかけがえのない場となるだろう。
「自分のいま、そして自分の未来について考える」というその切実な思いこそ、私は、読解力なるヌエのようなものの、しかしながら確かな根幹であることを信じて疑わない。菅野が繰り返し述べる、当事者性を自覚することの大切さという主張に、あらためて、その思いを確かめることができた。
授業という対話
菅野はこの論考で、自らの授業者としての理念を述べる。そしてその核心には、〈生徒との対話を通じた、共同の場への開かれ〉という企図を、はっきりと読むことができる。
対話。
それは、単なる言葉の交わし合い、コミニュケーションのことではない。
互いが互いの存在を認め合い、尊重したうえで、しかしながら己れの思うところ、信じるところを、ときに相手を批判することになっても、臆せずに伝え合うこと。
そこには当然、多くの困難や痛みが伴うことになるだろう。いわんやそうした対話を、教師と生徒という関係において成り立たせることは、生半可な態度で為し得ることではない。
しかし菅野は、その必要を強く訴える。
このとき、教室とは、単なる学習の場であることを超え、民主主義へ向けた熟議的理性の涵養の場となるだろう。おそらく菅野は、「教育困難校」でも、という意味ではなく、「教育困難校」だからこそ、という意味で、こうした理念を追求し、実現しようとしている。私は同じく教壇に立つ者として、菅野の覚悟と宣言に、深く、心を打たれる。
最後に
いま、私は「同じく教壇に立つ者として」と言った。しかしこの言葉を、私が、何の注意書きもなく用いることは、あまりにもナイーブな態度と言わざるを得ない。なぜなら私は教育者ではなく、教育産業の人間としてのみ、教壇に立ってきた者であるからだ。
私には、菅野のような授業を──つまり、授業者と生徒とが対等の関係で対話をし、共同の場を開いていく、そのことで、民主主義の未来を醸成していく……というような授業を、実践することができない。どのような高邁な理想を掲げようと、私にできることは、「テストで点数を取るための授業」以外ではあり得ない。
先日、こんなツイートをした。
ツイートに引用した記事のリンクも貼っておく。
いろいろな意見はあろうと思う。けれども、少なくとも、
……といった、このような言葉を生徒から引き出してしまうようであるなら、それはたとえ「試験導入」だろうが、大失敗以外の何物でもない。
私たちができることは、あくまで私たちができることでしかない。例えば菅野のような授業は、私たちには、絶対にできない。塾予備校講師は、公教育の教師の代わりにはなれない。そのことは、絶対に、忘れてはいけない。
今回、この記事に言及されている「担任」が、菅野のような教師であるのかどうかはわからない。しかしながら、そうかもしれない。あるいは、この「担任」のみならず、こうした制度が本格的に実施された際の"未来の「担任」"には、必ず、菅野のような心ある教師も含まれることになるだろう。私たちが、「わかりやすさ」や「授業のおもしろさ」を盾に、その場を犯すことなど、あってはならない。教育には、「わかりやすさ」や「おもしろさ」などとは比べ物にならないくらいに大切なことがある。
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