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檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)を読んで

野菜

例えば誰かがTwitterにラーメンの画像をあげる。トッピングの野菜は増量してある。コメントに、「野菜」などと添える。誰ともなしに宛てられたそのメッセージを目にした不特定多数の受信者は、「ふふ……」という笑いをもらす。「いいね」を押したり、リツイートしたりしながら、「次にラーメンを食べたときは、自分も同じことをしよう」などとにんまりする。

なぜラーメンを「野菜」と称して投稿することが、笑いとなるのか。

まず前提として、投稿者のなかに、ラーメンという、一般的に不健康とされる食べ物を口にすることへの背徳感があるのだろう。そして、「野菜」を食べているということにしてしまうことで、「こんな身体によろしくないものを食べてしまっている自分」を隠そうとする。しかしながら、実際にはラーメン画像がアップされているのだから、それはあくまで身振りであり、そこで実際に見せているのは、「健康に良くないものを食べようとする自分を隠そうとする、ダメな自分」である。そのダメなありようを本人自身がわざと示そうとしているというところが、おもしろい。

が、それだけでは笑いは生じない。笑うのは投稿者ではなく、それを見た、メッセージの受信者なのだ。つまりラーメンを野菜とするツイートが笑いにつながるためには、ツイートの読み手が、投稿者のそうした意図を共有していなければならない。ラーメンは身体に良くないということ、でも、食べてしまいたいということ、そしてその欲望にしばしば抗えないということ、そこから生じる、些細な、けれども確かな背徳感、罪悪感を、私たちは皆、知っている。だから、ツイートに共感する。「わかる」と笑いがもれる。そうして、「いいね」やリツイート、あるいは自らもまた同様のツイートをする。はたして、このような言説は無数に増幅してゆく。

黒烏龍茶

回転寿司のレーンに、ペットボトルの黒烏龍茶が流れてくる。手元には生ビールのジョッキが置いてある。けれども、黒烏龍茶が自分の前を通り過ぎようとするその瞬間、ほぼ無意識のうちに、ごく自然な動きで、それを取る。連れに、「へぇ、健康とか気にしてるの?」と聞かれ、ドキリとしながら、「いや、単に味が好きなんだよね」と答える。

なぜ、「最近中性脂肪の数値が気になって」と答えないのか。
なぜ、「単に味が好き」ととっさに答えてしまうのか。

そこには、健康でなくてはならないという、社会の皆に共有されている規範がある。「中性脂肪の数値が高いことは、恥ずかしいことなのだ」という、意識的あるいは無意識的なコードがある。おそらく、実際の健康云々という以上に、この「恥」という規範は、強い拘束力を持つのではないか。だから必死にアピールするのだ。自分は別に中性脂肪の数値が高いわけではなくて、ただ単に、黒烏龍茶の濃いめの味とすっきり感が好みだから飲むのだ、と。

誰が健康を強いるのか

では、不健康なものに対する背徳感、あるいは不健康それ自体に対する「恥」の意識は、いったい誰あるいは何によって植えつけられたのだろうか。それは一つに、国家権力によるものと言えるのかもしれない。

RADIOHEADの名盤『OK computer』に、「fitter happier」という曲がある。曲、とは言ってもメロディはなく、ほぼ、男性のモノローグで終わる。耳をすませば、背後で控えめな効果音が鳴るのが聞こえる。語りは、こう始まる。

fitter happier more productive
comfortable 
not drinking too much 
regular exercise at the gym (3 days a week)

もっと健康で、幸福で、生産的
悠々自適
酒を飲み過ぎない
ジムで定期的にエクササイズ(週に3度)

(RADIOHEAD「fitter, happier」『OK  COMPUTER』山下えりか対訳、EMI)

「もっと健康で、幸福で、生産的」。そう。「健康」であることは、直接的に、〈生産性〉と繋がる。国民一人ひとりの「健康」は国民一人ひとりの〈生産性〉に繋がり、それは端的に、国力の増強ということに等しい。となれば、国家権力が、国民の健康に着目し、それを向上させていこうと努めるのは当然と言えるだろう。よって政治は、様々な手段を使って、健康を志向することの大切さ、あるいは、不健康を「恥」とするコードを、国民の意識、そして無意識に植えつけようと試みることになる……。

しかし、この認識は本当に正しいのか。ここでの権力の発動は、そのような単純な見取り図で説明していいものなのか、というのはすなわち、〈可視的な国家権力が、トップダウン式に国民に規範を強制する〉という整理をもって、理解したとしてかまわないのか。少なくとも、ここに発動する権力は、前近代的な権力に顕著に見られるような、

「死」という脅しを利用しながら、「抑圧」という仕方によって支配を遂行する
(檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書)

というものではないだろう。少年漫画に出てくるようなベタな極悪権力者が、ゴゴゴゴゴゴゴ……などという効果音を身にまといながら現れ、

黒烏龍茶を飲めっ!!!  飲まないと鞭打ちの刑である!!! いや、死刑である!!! ラーメンを食っても死刑である!!!

などと強権的に命ずるなどということは、決してない。それどころか、法律は、黒烏龍茶を飲まないことも、ラーメンを食べることも、禁じてなどいない。むろん、罰則などもない。それなのに、私たちは、不健康を恥ずかしく思い、「健康であらねば……」と、強く、思う。

なぜか。

もちろん、健康に暮らしたいという思いは、自然な感情として、誰しも持つものであろう。だが、不健康を恥ずかしく思い、健康を志向するという心性は、おそらく、そのようなナチュラルな感情のみから成るものではない。それはむしろ、強迫観念としてある。どこかから、私たちの身体に侵入し、巣食い、そして意識へと湧き起こってくるものである。けれどもそうした観念を私たちに植えつける主体は、あるいはその発信源は、わからない。ほとんど場合、私たちは、それをわかろうとすらしていない。私たちは、いつのまにか、始点も終点も経路も不明な権力に、がんじがらめに絡めとられてしまっている。

いや、私たちは、不可視で正体不明の権力に、ただただ絡めとられているだけなのか? 例えば「野菜」とツイートするとき、例えば黒烏龍茶を恥ずかしそうに飲むとき、その行為は、〈不健康=恥〉というコードを再生産していることになる。そのとき、私たちの一人ひとりは、むしろ権力の主体である。私たちのそうした身振りを目にした誰かが、「自分も健康的であらねば……!」という規範を、内面化することになるのだから。

私たちは、どこが始点かも、終点かも、経路かもわからない、不可視の権力によって絡めとられている。そして同時に、私たちの一人ひとりが、そうした権力の主体として、他者の意識に、あるいは、無意識に、介入する。私たちは、互いに監視し合い、互いの身体を、すなわち生命を、コントロールし合っている。

視線による監視ネットワークは、相互監視的なものであり、同時に強く自己監視的な(監視されているという意識をもつことが自己自身を監視することになる)ものでもある。
(檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書)
いかなる者も権力の一部をなし、あらゆる振る舞いや言説はそこから逃れることはできないのである。
(檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書)

抵抗

再度、RADIOHEAD「fitter happier」から引用する。冒頭から抑揚なく、暗く、陰鬱に続く語りは、最後、このように閉じられる。

fitter, healthier and more productive
a pig
in a cage
on antibiotics

もっと健康で、幸福で、生産的
檻の中で
抗生物質漬けにされた


(RADIOHEAD「fitter, happier」『OK  COMPUTER』山下えりか対訳、EMI)

「檻の中で/抗生物質漬けにされた/豚」というのは、果たして、私たちの生の寓意なのだろうか。もしそうであるなら、私たちは、誰かによって監視される檻の中にいることになる。いや、誰かによってではなく、互いに、そして自己自身によって、だ。そこで私たちは、抗生物質を投与された――すなわち、「健康」な主体であることを、すなわち「生産的」な主体であることを、他者に、自己に、強いている。こうした構造を意識するとーー少なくとも私はーー、底の知れない不安と、恐怖と、そうして世界への違和感に襲われる。今すぐに、ここから逃げ出したくなる。しかし、

管理=コントロール社会には、どこにも逃げ場はない。
(檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書)

であるならば、どうすればいいのか。すなわち、

非人称的で相互監視的・自己監視的なシステムの直中に閉じ込められたわれわれにとって、「抵抗」とは何であるのか。
(檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書)

『生と権力の哲学』の中で、檜垣立哉は、フーコーやアガンベン、ネグリの思想を参照しながら、その答えを模索する。そこで一つの鍵となる概念が、ゾーエという領域、あるいは位相である。

私たちは、個々各々、人間として生きている(つもりになっている)。しかしながら、そのような生の深層には、いまだ人間という観念に色付けされていない生、植物を含めたあらゆる生物を主語にとることのできる、"生きている"という述語を含み持っている。個という観念、人権という理念、法、言語――およそあらゆる人間の文化、それらに関わるものに意味づけられる以前の、ただ単に"生きている"という生が潜在している。そうした生が、ゾーエである。

では、逃れようのない監視社会、管理=コントロール社会の中で、自らもそうした権力の主体となりつつ、しかしながら抵抗を企図するとき、このゾーエという考え方は、どのようにそこに接合されていくのだろうか。本稿のここまでの記述に少しでも感じるところがあったなら、檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)を読み、その点を確かめてみてほしい。現在(2022年10月)は在庫が切れているようだが、電子書籍版も販売されている。

私が目を通してきた限りでは、生権力ー生政治の入門書として、最も誠実な、"伝えよう"という意識に満ちた良書だと思う。とはいえ、"簡単"とか"平易"というわけではない。特にドゥルーズについての語りは私も読み取れないところがあった。生権力ー生政治、あるいは哲学そのものを非専門とする私と同じような読者であるなら、私と同じように、わかるところを自分の理解の及ぶかぎり丁寧に読む、という読み方を徹底するしかないだろう。だがそれだけでも、十分に、本書の良さは味わうことができる。そのような書き方になっている。そうした点が、先程この本を「誠実」と呼んだ所以である。

なお、私が『生と権力の哲学』を、素人ながらにある程度読むことができたのは、おそらく、木村敏『心の病理を考える』(岩波新書)で、ゾーエについてのイメージを具体的につかめていたところが大きいと思われる。現在(2022年10月)は品切れのようだが、古書で購入するなり図書館で借りるなりして熟読することをおすすめする。


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