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文学史を学ぶ意味

文学史はやらなくてよいのか?

大学受験の現代文学習で、おそらく、最も後回しにされてしまうのが、というより、ほぼノータッチですまされてしまうのが、いわゆる文学史の学習ではないでしょうか。
確かに文学史に関しては、他の言語知識等に比べて、出題の頻度はあまり高くありません。また、配点も、所詮は数点に過ぎないでしょう。
しかしながら、では文学史を学ばなくていいのかと言うと、それは違います。文学史にはそれを学ぶだけの大きな意味があるんです。もちろん現代文の学習において。

現代文学習における文学史の意義①

では、現代文学習における文学史の意義とは何か。
それは端的に言えば、評論文読解における語彙、および背景知識の獲得と言う点にあります。
例えば、文芸評論。
大学入試の現代文にはしばしば作家や作品を扱った評論やエッセイが出題されます。夏目漱石と森鴎外を比較する論考や、太宰治の文体を論じる批評など。そしてこういった文章を読む際、「夏目漱石って誰?」とか、「あ~、文学ってマジつまんね」なんて思いながら読むと、おそらくその文章は、ほとんど頭に入ってこないはずです。しかしながら、例えば漱石について、「そういえば、授業であの先生があんなことを話していたなあ」とか「国語の便覧に、こんなエピソードが紹介されていたなあ」なんていうふうに何かのとっかかりがあれば、その文章に対する集中力も、いきおい、増してこようというものです。

現代文学習における文学史の意義②

文芸評論に限った話ではありません。
入試の評論文には、しばしば、近代という時代を扱う文章が出題されます。
その際に、例えば、国民国家などというシステムが話題となったりするわけですが、そこにおける言語政策を理解する上では、例えば言文一致などという概念を知っておく必要があります。そしてこの言文一致という考え方は、近代文学史における最も大切なテーマの一つなんです。
江戸時代の後期あたりになってくると、東京の山の手あたりの町人の話し言葉は、僕らが使っている言葉とあまり変わらなかったと言う説があります。大げさに言うと、僕らがその時代にタイムスリップしたとしても、ある程度コミュニケーションが取れただろうと。
しかし、では、その時代の書き言葉はどうだったかというと、それはもう、思いっきり古文であったりする。
こうした、実際に使われている話し言葉と書き言葉との間の乖離を埋めていこう……もっといえば、古くさい書き言葉を、実際に日々使っている話し言葉に寄せていこうというのが、言文一致運動なんですね。言は話し言葉、文は書き言葉。その二つを「一致」させていこう、と。
例えば断定の助動詞といえば、近代以降の日本語では、「だ」や「です」、あるいは「である」を使います。に対して古文では、「なり」や「たり」を使うわけです。そういった乖離を、「もう話し言葉では〈だ〉と言っているんだから、"我、〇〇なり"じゃなくて、"我は〇〇だ"と書いていきましょう」と主張していく。そしてこういった形で書き言葉が統一されていくことが、近代国民国家における言語の統一という施策と、実は密接に関わりあってくるんですね。

最後に

このような言文一致運動に関わった有名な作家としては、二葉亭四迷山田美妙尾崎紅葉あたりがいるわけですが、ただ単に、「二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉=言文一致」などと丸暗記するより、こうした背景をしっかり学んだほうが、文学史としての知識もよりはっきりと記憶できますし、同時に、現代文読解のうえでの背景知識や語彙を手にすることもできるわけです。

こんなことがありました。
先日、次年度に向けての映像授業を撮影したのですが、その撮影スタッフの方々は、文学専門の方ではなく、もちろん文学史についてはあまり知識をお持ちではありませんでした。でも、そこでの僕の解説を聞き、「けっこう面白そう」とおっしゃってくださり、なんとその日のうちに、そこで紹介した本をご購入なさったのですね。「これからもう少し文学を読んでいこうと思うのですが、どうやって好きな作家を見つけていけばいいですか?」などというご質問も頂戴できました。
文学史はきっと面白く学ぶことができる。
そんな確信を持てたひとコマでした。

というわけで、文学史に関しても、おもしろくかつ有意義に学べる何かしらのコンテンツを発信できるよう準備を進めているところです。ぜひご期待ください(o^―^o)


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