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ドイツパン修行録~マイスター学校編~

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製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な…
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2021年9月の記事一覧

*36 ジャグリング

 上を見ろ、上を見ろと人は云う。また、前を向け、前を向けとも人は云う。何かを成すには下を見る隙も後を振り返る暇も無いのだと云う。まるで山頂を目指し断崖絶壁を登りゆく登山家である。所が私の様な世間知らずの臆病者の進む道を比喩えるならば山間に掛かる吊り橋を渡るが如くである。それでも天を仰ぎ橋の向こうを見据える事は同様に重要であるが、時折谷底を覗き込み恐怖心を煽ってはそれから橋を渡り切る為の推進力を捻出したり、ぷらぷらと不安定な足元に怯えた時などは後を振り返り確かにそこまで進んでき

*35 夜に潜る

  先週は然も道端に転がる幸運を探すが如く鬱向いて歩いていた私であったが、その週末から日を追う毎に曲がった背筋を徐々に伸ばしていくようであった。矢張りやらなければならない用事が片付くと気持ちも晴れやかになるものである。先日、引越し先に荷物を運んで元の下宿に帰って来た時も、物が少なくなった部屋の中に何処かすっきりとした空気が流れているのを感じた。本を正せば下宿で小ぢんまりと勉強ばかりしている生活の中で、無闇に部屋の中を散らかす手間を割くのも億劫であった為に、三月に移って以来一度

*34 ピクチャー

 十人十色とは良く言ったものであるが、余りにも色彩が豊かであると今度はその扱いに手を焼く。高校に通っていた時分に惰性で蛇足たる危険物取扱者資格など取る代わりに大人しくカラーコーディネーターの資格を取ってさえいれば、どれだけ多彩な講師が画面向こうに座ってももう少し繊細にその色味を識別し、鍛えられた己の色彩感覚で以て上手く使い熟(こな)せていたかも知れなかった。私は手元にある十二色の色鉛筆を単色で見るばかりで、その中から最も類似した色を無理矢理に使って画面を塗っていた。  八月

*33 井の中の蛙大海を夢に見る

 誕生日を境に世界ががらりと変わる事などある筈も無いとは解っていながら、それでいて何かに期待している自分がいたのであるが、これは何も胡坐(あぐら)を掻いてただじっと待っていれば今に心地の良い風が吹くんだからそれまで退嬰(たいえい)を謳歌しようじゃないかという他力本願な態度を肯(うべな)いたいわけではなく、私が漕ぎ出した船の上に私が立てた帆を孕ませるような追い風が吹くのを期待しているのに他ならなかった。喩え長閑(のどか)な水面を撫でる風さえ吹かなかったとしても、だからと言って甲