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ドイツパン修行録~マイスター学校編~

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製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な…
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2021年2月の記事一覧

*6 天使の拍手が鳴るかのように

 始業の定時である深夜一時よりも十分程早く工房に入り、すでに仕事に掛かっている数人の同僚に挨拶をしながら自分の持ち場である巨大なデッキオーブンの前まで足を運び、オーブンに窯入れや窯出し用に備え付けられた機械を操作する為のコンピューターの電源を入れ、冷蔵室で丸一日時間をかけてゆっくりと発酵を進められたバゲット生地が並べられている天板でいっぱいのキャスター付きラックを引っ張り出し、ナイフでクープを入れ窯入れする。それを皮切りに、その日中に出荷されるべき五種類のブロート(※1)を順

*7 パン屋に映す歴史的浪漫

 ドイツに来るより前に私がドイツに対して抱いていた印象、あるいは得ていた知識はほとんど無かった。ドイツ語圏である事とビールとパンとソーセージ、それくらいであった。ところが同時期にドイツに来て知り合った邦人達の口からは、ジャガイモや豚肉であるとかサッカーや古城であるとか、どこでどうやって仕入れたのかと思うような話を聞いて私は自身の無知をひそひそと恥じた。  皆が言うように、確かにドイツ料理と呼ばれる物のほとんどが豚肉とジャガイモの組み合わせであったし、古城が多い事や、サッカー

*8 夢を見るということ

 恋人が搭乗ゲートへ向かい、その背中を見送った瞬間から私達の九〇〇〇㎞に渡る遠距離恋愛が始まった。  フランクフルト(※1)は晴れていた。ミュンヘンの部屋からフランクフルトへ向かう道中で、スーツケースやボストンバックを携えた人をほとんど見掛けなかったので、このご時世、もはや後ろめたさを感じる様であったが、空港に近付くに連れそういった姿がぽつぽつと増えだすと少し安心した。それどころか、空港に入るとトルコ航空のチェックインカウンターには長蛇の列が出来ており、私の恋人同様祖国へ帰

*9 想い出を後にして

 フランクフルト空港から帰ってきた時は隙間だらけで私一人に対し空間を持て余していたアパートの部屋も、日に日にその規模を縮小していると見えて、相対的に自分を小さく見積もる事も少なくなってきた。  一人になると寂しいのは紛う事なき事実であるが、いつまでもおめおめとそんな事ばかり考えていても仕方がない。しかしここで言う寂しさとは、決して愛の欠損によるものに限った話ではなく、時間的余白の中で己に対する遣る瀬無さを感じている事をも指している。世間体を憚らずに言えば所謂ニートとなったの