ゲームAIの計算可能性とセクシュアリティの表現の制約性

 頭の中で計算することは、紙の上で計算することよりも、非現実的なのか。__ひとはおそらくそのようにものを言いたくなるが、しかしまた、その反対の意見へ導かれて、紙とかインクとかはわれわれの感覚与件から作られた論理的構成物にすぎない、とみずからに言いきかせることもある。
 「わたくしは頭の中で……なる掛け算を行った」__このような言明を私は信じないか。__だが、それは実際に掛け算だったのか。それは単に〈一つの〉掛け算だったのではなく、この__頭の中の__掛け算だったのである。これこそ、わたくしが過まちを犯す点である。なぜなら、わたくしはいまや、それが紙上の掛け算に対応しているような、何らかの精神的な出来事であった、と言いたくなっているのだから。その結果、「精神内のこの出来事は、紙上のこの出来事に対応する」と言うことに意義があることになってしまう。そして、そのときには、ある写像の方法について語り、それによって記号の表象が記号そのものを描出するのだ、と述べることに意義があることになってしまう。

ウィトゲンシュタイン『哲学探究 三六六』

 ゲームにおいて計算を必要とするというのはどういうことなのか。それは何らかの代替表現の一種なのか。それともある計算技術の利用可能性に関する特性を現前させる方法がゲームとして遊ばれているのか。しかしそもそも遊ばれるゲームになぜ計算は必要であると思われているのか。他の遊んでいるプレイヤーが「計算している」とはいかなることを示しているのか、あるいはそれを示すように誘われているのか。ゲームAIが単に「計算をしている」という表現は十分ではないのか。もしそれが十分でないとしたら、なぜ計算が「必要である」ということになるのか。

 まずは簡単なゲームで考えてみよう。二人で行うじゃんけんの場合、プレイヤーは計算をしているという時、考えているのは「グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ。そして同じならあいこ」ということである。では単なる運でしかないこれらの勝つ確率のことを考えているのだろうか。もしもじゃんけんが相手のポーズからどの手を出すのかを先に読み取ることが可能であるとしたら、考えていることは手の三すくみではなく、相手は現在の表情や手の動きからどのような流れで「グー、チョキ、パー」のいずれかをだすかを予測するということが計算するという意味なのだろうか。ではその予測を防ぐために「グー・チョキ・パー」を特定の暗号文に変換して離れたところからシンボルの表示だけで勝敗を決めるようにしたらどうか。それともその暗号を別の手段で解読すべきなのか。しかしじゃんけんで勝つことに何か意味はあるのだろうか。たとえばじゃんけんで勝つと何か報酬がもらえるとかということか。この場合、計算することはもらえる報酬のことを考えているということだろうか。では報酬が「グーがグリコで3歩、チョキがチョコレイトで6歩、パーがパイナツプルで6歩」移動するとしたらどうか。この報酬は不公平なのだろうか。確かにグーで勝っても3歩しか移動できない。しかし歩数の距離が何らかの反映を示しているわけでもなく単なる距離を表しているだけだとしたら、この報酬の違いに何か意味はあるのか。ではグーで勝つことを「グリコノオマケ」で7歩移動することにしたら不公平は改善されたことになるのだろうか。数字だけで見れば7,6,6なのだから3,6,6の時より不公平は改善されているのではないのか。これを計算しているというべきなのか。しかしもしグーでチョキに勝った時に、グリコで3歩移動するかグリコノオマケで7歩移動するかがルールであらかじめ決まっていないのに3歩移動したり7歩移動したりするのは不公平であるということであり、それは計算していることになるのかもしれない。しかしこのルールに違反しても、別に何かがあるわけではなく、単に与えられた規則に対して進む歩数が間違っているというだけである。ただある場面で「グーはチョキに負け」を意味しているのでチヨコレイトで6歩進めることにしたら、それはじゃんけんとしてのゲームが成立しないということを計算していることになるだろう。それともここで私はわざと計算という語を濫用しているのだろうか。

 ここまでじゃんけんでもらえる報酬は大したものではなく単に移動距離の違いに過ぎないものだった。ではこの報酬を「先に30歩の地点まで進んだら賞金がもらえる」ものにしたらどうなるのか。それは法律に違反しているだけでなくゲームとしての純粋さを損なうものになるのだろうか。例えばグーがグリコで3歩しか進めないのならグーでは10回勝たなければならないことになり、グーで勝つことはチョキやパーで勝つことよりも期待値がとても低いがチョキとパーならチョキの方が強いのでチョキを出し続けるのが期待値的には強いがだからこそグーを出した方がいいのでパーを出すことにも一定の価値がある、という風に戦略を組み立てられる。しかし逆にグーで勝つことがグリコノオマケで7歩なら、グー・チョキ・パーで勝つことに対して差は生まれないから戦略という戦略は存在しないことになる。こちらの方が公平ではないのか。奇妙なことだがこちらの方が明らかに計算が存在していないように思えてくる。結局はじゃんけんなのだからどの手を出すにしても予備動作や読み取りをしないなら確率は同じなはずであり、期待値計算も実際には同じでしかないのに戦略があるように見えるのだ。そしてその戦略を組み立てることが賞金という不純になる要素から生み出されているのはどうしてなのか。ここには計算をする他者という表象がゲームの参加者として成立しているからなのだろうか。それともこの「じゃんけんのゲーム性」に何らかの「依存的要素」があるから賞金という要素が加わるとそれは計算の罠にはまってしまうということなのだろうか。じゃんけんに夢中になることによって、本来の計算能力を失ってしまうまでにゲームにのめり込んでしまうということなのか。そこからなんらかの違反性を行うことに繋がってしまうのだろうか。

 じゃんけんというゲームを販売側が売りに出す論理で考えた場合、じゃんけんをするたびに料金を発生させることが期待値的に利益につながるというのはある単体の商品に対するおまけ(余剰分)を追加するときに発生する計算においてであり、じゃんけんというゲームそのものに対して賞金を設定してしまう場合、じゃんけんというゲームの手軽さに見合った賞金のレートを考案するのは簡単なことではないだろう。それは期待値の計算が難しいという意味ではなく賞金の量に対するじゃんけんというゲームの戦略性のなさがそれに見合った報酬としての計算の価値を生み出さないからである。つまりじゃんけんというゲームの勝利条件を真剣なものとして考慮することがゲームプレイヤーとしての評価を計算するには至らないということである。ではチェスなどの競技性の高いゲームでは賞金などを賭けて争うことができるのだから、そのような計算が可能なゲームの方を考えるべきなのか。というのもチェスに対してはゲームAIの利用は盛んに行われており、そのことが計算領域の拡大と戦略性の増大をもたらしたように見えるからだ。私がここでチェスとゲームAIとの関連について多くの言葉を費やしたくないのは、チェスの戦略はゲームAIの最適化という観点から十分に対人的な計算ができてしまうからという理由に依っている。つまりチェスにおいては人がチェスをしている振りをしているだけなのか、それとも真剣にチェスをしているのかが結果として説明される観点から計算可能性について言及することはゲーム自体の観点から譜面として描写することができ、かつその振る舞いは勝利という条件に有意義なやり方でゲームプレイヤーに拘束されているのである。仮にゲームAIが初心者に対して手加減する振る舞いを学習機能として必要なだけ提供しているのだとしてもである。

 ゲームが依存症との関連で語られるとき、問題になっているのはゲームが人間の脳に科学的な意味での悪影響を与えうるとされることではなくて、人間が脳の知性を使ってAIと同じような環境条件を把握しているのとは別の身体性に依拠する循環を追加の条件で生成してしまうことにあるのだと思える。つまりゲーム本来のプレイ環境とは別の表象性においてゲームプレイの戦略性が語ることが賞金=収益性との構造から既存の参照枠を踏み越えてしまうことを単に語りの問題に還元することができないからではないか。私がじゃんけんについて多言を弄し、チェスについてほとんどここでは語らないのはじゃんけんをするプレイヤーにはじゃんけんというゲームの表象に関してはじゃんけんのゲーム性はほとんど関わることがないのに対して、チェスにおいてはプレイヤーが直接的にゲームプレイに技術的=知性的に関わっており、かつそれが個性として表わされるのは何らかの語りの表明に対して勝利条件とともに構成されるデータ情報に無理なく還元できるからだと思える。仮にその人間のイメージや内面性がゲームプレイから想像できないものであったとしてもである。例えば、人がチェスをする振りをするという時、それはチェスでイカサマをすることができると考えるのと同じくらいナンセンスな意味、つまりあるゲームプレイの人間らしさの隠喩をAIの(不正)利用として語っているのに対して、じゃんけんでイカサマをするというのは相手のポーズの癖を読んだり性格を当てたりするという要素でしかない。なのでじゃんけんでAIを利用するというのはじゃんけんする相手の生体情報がじゃんけんの身振りにどう反映されるかどうか、という読みが信頼できるのか、その場で気分が変わって高速で後出しをすることができるのか、という程度のことになってしまうのである。だがこれはじゃんけんでなければ、有意義なゲームを実践的に代表象しているのではないのか。

 じゃんけんをするという行為が例えば魅惑的な他者(異性的でも同性的でも)とゲームを楽しむというような条件として提示されているとしたらどうか。このじゃんけんはゲーム性を楽しむという意味で計算をしているのだろうか。明らかにそういうことはできない、と言ってしまっていいのか。この他者が実際の人間ではなくAIが表象しているプレイヤーのロールであるとしてもそのじゃんけんは魅惑的な計算を行っていると言えるだろうか。チェスのような競技性の高いゲームで考える場合はその他者が魅惑的なのはゲームの実力が高いという意味と同じことになる可能性が高いし、そのことが魅惑的という意味を尊敬という趣旨のことだけで語ることが可能であるかもしれない。我々は仮に人間でない動物がチェスをより上手く指すことができるとしても、やはりそこではその動物性ではなくてチェスの知性となる技能を尊敬する。この場合ゲームAIが魅惑的なプレイヤーのロールをしているのは純粋に演出でしかない。しかしじゃんけんのようなゲーム性の「低い」行為では、そのような口実を利用することは難しい。しかしじゃんけんというゲームがそのような他者との交流を有意義な観点で取り組ませるというのは偶然的なことではなく本質的なことである。そのことはじゃんけんというゲームの「計算の可能性」の一部でなければならない、ということが重要ではないのか。もしじゃんけんをするのが単なる口実であり、その勝敗がゲーム自体の馬鹿馬鹿しさは置いておいて、真剣に行われないのなら、ゲームの意味はただ出会いの関係を擬装するだけであり、魅惑的な他者とのゲームを楽しむという要素は生まれない。それならばチェスのようなゲームの真剣さの方が事前に戦略を考えておくべきだという意味で偶然の出会いを大切にできるのではないのか。しかしチェスを口実にするというのはチェスを目的にするというのと同じレベルの言明であるのか。チェスを「トッププレイヤーにはなれない程度に」ほどほどに楽しくやるというのはチェスというゲームの説明として意味づけられるのか。その場合チェスをやることは心理戦あるいは友情であって「計算可能性」の一部では「ありえない」のではないか。

 じゃんけんをすることが楽しいという意味について考えてみよう。じゃんけんをすることが楽しいというのはじゃんけんのゲーム性が「楽しい」ということであるとは思えない。そうではなくてある他者とじゃんけんというゲームをするのが楽しいのであり、その勝ち負けの共有に対する感情が真剣なものであることがもう一度じゃんけんをさせるための動機になっている。したがってじゃんけんをするための戦略とはじゃんけんの競技性の複雑さではなくて、じゃんけんをするのに至る過程をどのようにプレイヤーの表象に組み込むのかという計算可能性にあるのでなければならない。この場合、じゃんけんをするのに必要な「知性」とは、じゃんけんのゲーム性の技術ではなく、相手のことを知ろうとする労力の反映としてそのスタイルが構造化される出会いの偶然性の表現にあると言える。しかしこのことはじゃんけんというゲームを利用して現代の社会的な分析の視点=観察者について語っているだけではないのか。じゃんけんに観察者が社会的に必要であるのか。仮にじゃんけんに観察者が必要だとしてその観察はどのようなものとして成り立っているのか。じゃんけんをするプレイヤーAとプレイヤーBがお互いに同時に手を出して提示された手の状態を見てどちらが勝っているかを判定する第三者が必要なのか。私はこの主張はチェスにおけるほど明白ではないと思われる。チェスの場合、仮に対局を行うのが二人きりであり、その勝敗が盤面を見ればわかる類のものであるとしても、それが第三者の視点を内包していないとは言えないと思えるのに対して、じゃんけんの場合はどちらが勝ったかどうかを客観的な視点で定めることが「常に」有意義な主張であるとは言い切れないと思える。それはじゃんけんの場合、あいこの場合も含めて勝敗の推移がすぐに次のじゃんけんの勝負に持ち越されて入れ替わる可能性があるからではないか。チェスはそう簡単に次の勝負に移行して勝敗を入れ替えることがプレイヤーの実力としてあるいは疲労などのコンディションの問題としても難しいということが本質的にあるのではないだろうか。チェスに心理戦が競技内容の一部になっていることは、チェスにおいて不当な盤外戦術が許されることと同じことではない。それは審判の不正(あるいは手落ち)なのだ。ではここで私が言いたいことは、チェスは事前に十分に戦略を練って時間をかけて実力を訓練しなければならないことの代価として報酬が交流の結果として正当なゲームに与えられるのに対して、じゃんけんには勝敗の即時性に対する可逆性があるから戦略を練るのは短期の決着に見合った状態の互換的な報酬性でしかないということなのか。そうではなく、じゃんけんはチェスと違って盤面の駒(シンボル)の捕獲的な取り換えでの移動ではなく、表象の報酬の互換性を戦略の遷移性としてゲームの計算可能性に入れなければならないということが主張されているのだ。

 「確かに……なる数列の構造を教えているとき、ともかくわたくしは、かれが第百項目に……と書くべきであることをいみしている。」__まったく正しい。あなたはそのことをいみしているのだ。また、明らかに、そのことだけを必ずしも考えているわけではないとしても。このことは、「いみする」という動詞の文法が「考える」という動詞の文法とどれほど異なっているかを、あなたに示している。そして、いみすることを一つの精神活動と呼ぶことほど、倒錯していることはない!すなわち、ひとが混乱を生み出すことをめざしているのでないとするならば。(ひとは、バターが値上がりしているなら、バターの活動についても語ることができよう。そして、そのことによっていかなる問題も生じないなら、そのことに害はないのである。)

ウィトゲンシュタイン『哲学探究 六九三』

 チェスが選択肢を探索するゲームではなく選択のゲームであると(誤って)描写されるとき、我々は選択肢の多さをある特定の場面から情報の塊を直観的に結びつけるチャンクの能力の集合的な最適解を盤面の映像に時間的に結論付ける指し手のことを優れたプレイヤーであるとAIに対して主張しているのではないだろうか。つまりAIは因果的な論理推論が苦手であるから、そのことをAIの帰納的-ネットワーク的思考の演算能力に対して直観的なひらめきの鋭さと対照的なものとして思い描くことで対局を説明している、と。だがそこがAIとの対立点なのだろうか。もちろん人間は因果推論と帰納的-ネットワーク的な演算を併用して認知の計算可能性を広げることができる。が、ここで言いたいことは、AIが自動的に意味するものを人間が意味として生成してしまうことに対して条件づける振る舞いが、単にAIの動作に対する機械的なシンボル入力の帰結であるにすぎないのかどうか、ということにある。私はここでAIが人間のように実存を「考えている」かどうかを疑わしいと思っているということではない。またAIが人間の自律性の意志を奪いかねないということを意味しているというわけでもない。AIが「猫」という概念を画像の学習から生成するということは、人間の認知イメージの世界観の自律性を脅かしているのではない。そうではなくて、「人間の自律性」が意味していることをAIが拡張することに対して、単に視覚的な映像の運動イメージを「計算可能性」としてシンボル表記することに還元していることを他者の意味づけとは別の意味合いで「自動化」の統計的な入力の結果だと最終的に判断してしまっているということである。あたかも人間の「尊厳」は相互主観的であり、その主観性を客観的に肯定-否定するには統計的な因果推論を含めなければならないのに、自律的な意味の生成はそれから逃れてしまうので、それを身体の運動イメージの実践理性として描写しなければならないことを便宜的に「自動化」と言っているかのようである。チェスで自分のポーンの駒が自分のクイーンの駒を「取れない」のは駒自身に内在する動き方のヴァリエーションに選択肢の幅の限界があるからなのだろうか。もしそうであるならば、我々がじゃんけんのルール選択の勝ち負けを客観的に「認識」できないことが、意味を自律させるための手の主観的な統計情報のゲームAI的なイメージであると言うべきなのか。それとも統計情報のトレードオフについて他者の計算可能性を考えることは選択肢の探索ではなく選択についての戦略を表象代理として説明しなければならないことになっているのか。

この言語の波は、われわれがある器械について語っているとき「運動の可能性」なる語をどのように用いているか、を自問するとたんに、静まってしまう。__しかし、そのとき、どこからその奇妙な考えが生じてくるのか。いま、わたくしはあなたに、たとえば運動の映像を介して、運動の可能性を示す。〈それゆえ可能性とは何か現実性に類似したものだ〉と。われわれは「それはまだ運動していないが、すでに運動する可能性をもっている」と言う__〈それゆえ可能性とは何か現実性に近いものだ〉と。われわれは、かくかくの物理的条件がこの運動を可能にするのかどうか、疑うかも知れないが、しかしそれがあれやこれやの運動の可能性であるかどうかについては決して議論しない。〈それゆえ運動の可能性は運動そのものに対して比類なき関係に立つ。映像の可能性と映像の対象との関係よりも密接である〉と。なぜなら、それがあれやこれやの対象の映像であるかどうか疑うことができるからである。われわれは「それがこの軸にかかる運動の可能性を与えるかどうか、経験が教えてくれるだろう」とは言うが、「それがこの運動の可能性であるかどうか、経験が教えてくれるだろう」とは言わない。〈それゆえ、この可能性がまさにこの運動の可能性であるということは、経験上の事実ではないのだ〉と。
 われわれは、こうした物事に関しては、自分たち固有の表現様式に注意を払っているが、しかし、それを理解せず、誤った解釈を下す。われわれは、哲学するときには、文明人の表現様式を耳にしてそれに誤った解釈を下し、次いでみずからの解釈から最も奇妙な結論を引き出してくる野蛮人、原始人に似ている。

ウィトゲンシュタイン『哲学探究 一九四(抜粋)』

 じゃんけんというゲームで例えばグーを出すことを「私が気合を込めているイメージ」であることを意味していると主張したらどうか。じゃんけんでグーを出すことは私が気合を込めていることをあなたに伝えたいためにそうしたのだ、と。しかしそのことでパーを出さない理由になるのだろうか。むしろパーを出すことで「あなたの気合のイメージは空回りしていますね」ということを伝えることもできるのではないか。しかしそれはつまり「グー」を出すことが「気合を込めたイメージ」として適切に伝達されていることを意味しているのでなければならないが、それは運動の実際の動作ではないことを示しているということなのだろうか。ではもしグーを出すと宣言しているのにチョキを出してパーを出した相手に勝利したらどうか。それは「気合を込めたイメージ」が嘘であり、実はそれは相手を騙すために主張した事だったのだ、ということなのだろうか。しかしその場合でも「グー」が「気合を込めたイメージ」であることが疑われているのだろうか。むしろ疑われているのはその主張と運動イメージの「内面性」が別の表象であるということであり、だからチョキを出してパーを出せば「あなたの気合は空回りしていますよ」というメッセージの伝達を「裏切って」読んでいるということになるではないのか。しかしそうであるからチョキが「勝利のイメージ」として「実はあなたは勝利のことだけを考えて私を偽りのイメージで翻弄した」としてじゃんけんの真剣さを否定することもできるのではないか。あるいはそのことも含めてじゃんけんというゲームの戦略を真剣に追及していたのだ、と返答することもできるのではないか。このことはじゃんけんのゲーム性の客観的な確率性を「無視する要素」として相手の損失を望んでいることになるのだろうか。もしも賞金としての報酬があるのなら、この戦略は賞金欲しさのためにやったのだ、としてルールのフェアさを否定する違反に繋がるのだろうか。しかしじゃんけんで「グーはパーに勝つ」というようなルールの違反として、あるいは認識が「このグーは実はグーではなくチョキを出しているのだが、あなたにはそのように見えないだけなのだ」と主張する権利がじゃんけんの「真剣な」戦略の追求としてあるということだろうか。それは後出しの権利の無限後退につながるからじゃんけんというゲームのフェアさとして騙す-騙さないという条件の前に禁止されることであり、じゃんけんの先に出す手を宣言して相手に嘘をつくような「禁じ手」とは区別されるのではないだろうか。じゃんけんにおいてグーの手を出すことはグーという手のの表象(グーはチョキに勝ちパーに負ける構造)を後から変更することができないということがじゃんけんのゲームの意味を保証しているのであって、不正にグーの画像をチョキのイメージに変換するのを防止することがルールの認識(グーはチョキに勝ちパーに負けるという手の運動)のフェアさを担保しているのではない。しかしこの種の説明のすべてを考慮したとしても結局はじゃんけんで勝つ確率は変わっているわけではなく、出す手の選択はプレイヤーに「完全に」委ねられており、そのための最適な選択肢の探索があるということではまったくないのである。この意味の自律性をイメージの欺きであると主張することは人間がイメージの錯覚を抱いてしまっているということと同じになるのだろうか。おそらくそれはセクシュアリティの不完全さの歪みとして表象の人格的な代理性に性が重ねられているから、ゲームの制約上の(不)均衡が他者の計算可能性として魅惑的になったり不快になったりするのではないか。

 じゃんけんが強いというのとチェスが強いというのは同じ意味なのだろうか。もしゲームプレイヤーがそれぞれの役割に応じて使い分けられるのだとしたら、その表象はいかなる不完全さのイメージとして代理されるのか。匿名のプレイヤー同士が対戦して「あの人はじゃんけんが強いがチェスは弱い」というのは単なる個人の感想に過ぎないが、「あの人はじゃんけんは弱いがチェスは強い」というのはイメージに反してという性格付けがないだろうか。次のように考えられる。じゃんけんが強いというのは「その人の実力の身の丈に合ったものではないが運やはったりなどのセンスが優れている」がチェスが強いというのは「その人の実力や才能が優れていると認められている」ことを意味することが一つの表象としてあり得ると。ただしチェスをするプレイヤーのすべてがこのような性格の人間だ、ということが合意されているのではなくてじゃんけんが強いとかチェスが強いとか言うときの一般的な形容の表象がそのように意味づけられるということ。したがってじゃんけんが強いことが出会いの偶然性として「性的に」語られるときにはそれが出会いの乱雑さを繰り返すということを含意する(かもしれない)のに対して、チェスが強いことは「性的に」じっくりと話し合ったり一つの技術に対しての献身としてイメージされる(かもしれない)ことがあり得ると。ある意味では「性欲が強い」ことがゲームの強さ(あるいは弱さ)に紐づけられることがあり得る。たとえば性的にだらしないからチェスの試合で勝てなかったとか、おとなしくて性的に引っ込み思案だからじゃんけんに強い選択を取ることができない、等々。もちろんゲームの数学的な計算可能性に対してこのような表象の意味づけがAIの持つ演算能力のようなものに比較して「劣っている」ことになるわけではない。しかしこれらの表象は単なるシンボルとしてノード選択の宣言のようにアクティブになったりクールタイムとして選択不可能になったりというダイアグラムとして構成される表現でも考えられるということはメタデータのストーリー配置の一種としてのみ可能になるということだろうか。では我々がそのような表象の意味づけを行うのは、メタデータ的な追跡可能性の分節化を「強さ」の近似として求めた結果なのか。じゃんけんが「強い」という意味を一人の人間が別々のキャラクターとして表象するということはできないのか。チェスが「強い」という場合、チェスの技術や知性を別々のキャラクターに分割するとは、単に語りの文章表現として性格の違いを戦略のイメージとして区別することにすぎないが、じゃんけんが「強い」というのはそれ自体のゲーム性に関与しているわけではないのだから、スタイルの構造、その表象の主体性が何を求めているかの戦略性を指定する制約条件になるのではないだろうか。しかし次のように言うことはできないのか。あるチェスをプレイするキャラクターを描く小説がじゃんけんのような強さの個性を持つプレイヤーとしてそのキャラの内面性の描写を行った時、その表現は性的な自己のシンボルに対する宣言と重なる表記法が名称指定として計算可能になる、と。このことはそのキャラクターが「チェスが強い」ことを意味するのか。それはチェスが強いというゲームプレイの表象に対する制約条件としてじゃんけんのような出会いの場面を偶然の読者に対して描写する、という構造と同じではないのか。それをAIの計算可能性の他者性としてセクシュアリティの比喩に重ねている広告の表情のイメージを魅惑的なものとして無料の報酬を読み込みに差し出しているのではないだろうか。

 次のようなことでありえよう。わたくしは誰かが「第九交響曲を書いているベートーベン」なる画像を描いていることを耳にする。わたくしはそのような画像を見ることがどのようなことであるのか、容易に想像することができよう。しかしゲーテが第九交響曲を書いているときどのような様子であったのかを誰かが叙述したがっていたとしたら、どうか。そのとき、わたくしには、困惑もせず笑いたくもならないようなことは何一つ想像するすべがないであろう。

ウィトゲンシュタイン『哲学探究 第二部 Ⅵ』

 「私が言いたいことはそのようなことではない」。確かに。しかしどのように語るべきなのか。私はセクシュアリティについて語ることは「私の」表象に関して語っている活動ではないということを説明すればいいのか。それは証明可能なのか。あるいは計算可能性の中でゲーム的な実践の中で示されるべきことなのか。しかしゲーム的実践の中で示されたことをはその計算の表象を可能性として意味していることに十分なっているのだろうか。

 量りえぬ証拠の中に、まなざし、身ぶり、口調〔など〕の微妙さがある。
 わたくしは愛の本当のまなざしを認知し、それをいつわりのまなざしから区別するかもしれない(そして、もちろん、ここにはわたくしの判断についての〈量りえる〉保証が存在しうる)。しかし、その違いを記述することが全然できないかもしれない。しかも、このことは、わたくしの熟知している言語がそのための語を備えていないからではない。そうだとしたら、なぜわたくしは端的に新しい語を導入しないのか。__もしわたくしが最高に才能のある画家であったとしたら、わたくしが画像上に本当のまなざしと見せかけのまなざしを描出していることも考えられよう。

 どのようにして人間が何かに対する〈まなざし〉を獲得することを学ぶのか、自問してみよ。そして、そのようなまなざしはどのように使えるのか、と。

ウィトゲンシュタイン『哲学探究 第二部 Ⅹ』

 機械学習が画像を生成するときのエッジ分節の視覚はこれらのまなざしとどう異なるのか。画像の視覚イメージを合成することは文法的な分割の情報データの置換的な合成よりも表現能力の優位性という価値を持っているから、より「真実らしく」なるのか。プラトンの挿話。動物の知覚が間違えるほどほんものの果物らしい絵と人間の眼差しを隠すベールそのものを表象する絵の違い。ここから自分は「偽っている」のだと信じている人間の〈私〉が表象される。何に対して偽っているのか。もちろん「自己の」未熟な分節の可換性を持つセクシュアリティの意味に対してだ。本来的な成熟として自己自身を「真に知っている」ことが可能な言明として存在しない声のシニフィアンは見せかけの構造において表象のゲーム性の条件に制約されて表現の計算可能性を持つ。ここで成熟と未熟という言葉はマシンインターフェースの探索能力のラベルの意味ではないのか。例えばVtuberが口調に対する見せかけの声を演出するとき、その存在は肉体に対して〈ほんものである〉ということになるのか。口調が口の動きやイントネーションに連動していればいいのか。しかしそれならば小説であるキャラクターが声を使って話す時の〈ほんとうらしさ〉はアニメにおいてあるいはゲームにおいて移植するときにどのような演技を持って〈ほんとうらしさ〉を表現するのか。そもそも原作がないアニメについてそのゲームはどのように声の演技を行えばいいのか。声のシニフィアンは「人間らしさ」のエピソード記憶の画像処理のような音声収録の技術保存といかにして匿名のメッセージの生成から区別可能になるのか。内的状態の痛みの快楽を得ていることが肉体的な疲労の弁明に対する記憶の責任なのか。いかにして緊張と脱力の痛みの表象が肉体の快楽の現前から強制の音声認識の画像編集ではないと知るのか。むしろ異なるレイヤー間の緊縛の快楽が状態遷移の更新可能な機械として探求されることがゲームの失敗に対しての声の遠心力を「私は快楽を得ているのでない」という主観的な否認に対抗する知識としてタイムスタンプの計算可能性をAIが計算するのとは別の表象で与えるのではないだろうか。人はその事を金銭的代価を得ていることの理由として「納得する」ことでそれを正常な性関係の記述に置き換えることで知識を学習することの関係と交換してしまうのである。


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