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パスツールと予防接種 ~多くの命を救った近代微生物学の父~

19世紀フランスの化学者ルイ・パスツール。
牛乳やワインの低温殺菌法・ワクチンによる予防接種の開発など、多くの業績を残し、近代微生物学を開拓した偉人です。

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ルイ・パスツール(Wikipedia)

ルイ・パスツールは1822年、フランスとスイスの国境に近い小さな町、ドールに生まれます。

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フランス ドールの町(Wikipedia)

学問の道へ

パスツールの親は皮なめし職人で、あまり裕福ではありませんでした。
子供の頃のパスツールは真面目な性格でしたが、特に勉学に優れていたわけではなかったようです(平凡と評価されていた)。
しかし、中学校の先生に教えてもらったパリの高等師範学校(エコール・ノルマル=教員・研究員を養成する大学)で学びたいと思ったパスツールは、エコール・ノルマルを目指し勉強に励みます。
その道は決して平坦ではなく、親元を離れて通った予備校ではホームシックになり、実家に戻ったあと再挑戦しています。
そして20才のとき、ついにエコール・ノルマルに入学します。

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エコール・ノルマル(Wikipedia)

入学後、熱心に学んだパスツールは、有名な化学者ジャン=バティスト・デュマの講義に感銘し、化学の道に進みます。
化学の研究を始めたパスツールは、酒石酸の光学異性体を発見します。この功績によってストラスブール大学の教授に就任します。
それから数年後、フランス北部の都市リールの理科大学に移ったパスツールは、1857年、アルコール製造所からワインが腐敗する原因の究明を依頼されます。
ここから、近代微生物学を切り拓いたパスツールの挑戦が始まります。

発酵と微生物

アルコールが発酵(腐敗)するのは何故なのか?
パスツールは原因究明のため、実験を重ねました。
そしてようやく、微生物(酵母)の仕業であることをつきとめます。
微生物がぶどう酒などに混入するために発酵が起きる。画期的な発見です。
当時、酵母は既に発見されていましたが、発酵の原因とは考えられていませんでした。
ちなみに、酵母を発見したのはアントニ・ファン・レーウェンフック(オランダ)とされています。手製の顕微鏡で発酵中のビールを観察したところ、粒子状のものを見たという記録が残っています。細菌そのものを発見したのもレーウェンフックです。

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ビールの酵母(サッポロホールディングス(株)HP https://www.sapporoholdings.jp/research/topics/technology/)

この頃は微生物が空気のないところでも自然発生するという「自然発生説」が信じられていました。
しかし、パスツールは自然発生説を否定し、特殊な形のフラスコを使ってその誤りを証明しました
実は100年以上前にレーウェンフックが微生物の自然発生を否定しています。しかし、本業(織物商)の傍ら、趣味で研究を行っていたレーウェンフックは、論文などで考えを公表しなかったため、その考えはあまり浸透しませんでした。

パスツールは発酵の原因を研究する中で、低温殺菌法を開発しました。
低温殺菌法は100℃以下で牛乳やワインを数十分加熱し、バクテリアなどの微生物を殺菌する方法です。
アルコールなどを飛ばさず、素材の風味を残したまま加熱殺菌する方法として、今日も広く使われています。

さらに、カイコの微粒子病を研究し、原因をつきとめます。その過程で、医学への関心が高まっていくのでした。
1867年、パスツールは脳卒中で倒れて左半身不随となりますが、研究への熱意が衰える事はなく、半身不随のまま研究に取り組み続けます。

人々を病から救う挑戦

1.炭疽(たんそ)病の研究

細菌が病原体であると説いていたパスツールは、人類を病苦から救いたいと考えていました。

1876年、パスツールのライバル、ロベルト・コッホ(ドイツ)が炭疽(たんそ)病の原因は微生物であることをつきとめました。
コッホは炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者であり、細胞培養の方法を確立した細菌学の開祖と言われる人物です。

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ロベルト・コッホ(Wikipedia)

コッホに先を越されたパスツールは、いよいよ伝染病の研究に着手します。
すでに光学異性体や発酵・低温殺菌など、多くの研究成果を残していたパスツール。50を過ぎて新たな分野にチャレンジします。 
しかし、医師であるコッホと違い、パスツールは解剖や病人の診察などをしたことがありません。医学の知識も乏しい。そこで、医師を助手に迎えて研究を始めます。

あるとき、奇妙な現象を見つけます。炭疽菌を牛にうえつける動物実験をしていたときのことです。どの牛も炭疽病を発症したのに、二頭だけ完治しました
そこで、パスツールはより毒性の高い培養菌をとりよせ、治った二頭に注射してみました。
するとどうでしょう。いつまで経っても病気を発症せず、注射した個所は腫れる事もありません。
このとき、パスツールはひらめきます。
「いちど炭疽病に感染して治った牛は、炭疽病菌に何度攻撃されても炭疽病にかかることは無い。つまり、牛に炭疽病に対する免疫が出来ているんだ。」

それ以降、パスツールは毎日深く考え込むようになります。
軽い炭疽病にかかれば、感染しても動物は完治し、炭疽病の免疫ができる。では、どうすればそれを実現できるのか、どんな方法を使えば良いのか...」

2.鶏コレラ菌の研究とワクチン

1880年、パスツールは鶏コレラ菌の研究に取り組んでいました。
鶏コレラは感染して数時間で鶏を死に至らしめる病気です。
パスツールの研究室は培養した鶏コレラ菌のフラスコで溢れかえっていました。さすがに整理整頓しなくてはいけないと思い、フラスコを見まわしていたとき、あることを思い付きました。
古い菌でもまだフラスコの中で生きているはずだ。これを鶏に注射してみよう」
一ヶ月以上経過した菌を鶏に注射したところ、鶏は病気を発症し、ぐったりとしました。
翌日、鶏の様子を見にいくと、なんと鶏は元気に動いています。
もう一度試してみても、同じ結果になりました。
ついに、パスツールは動物をかるい病気にして免疫を獲得する方法を見つけたのでした。
菌を弱毒化して接種することで、軽い症状で済ませ、免疫を獲得する。
予防接種法の確立です。
パスツール58才のときでした。

予防接種の言葉を初めて使ったのはエドワード・ジェンナー(天然痘を予防する種痘法の発見)ですが、パスツールの確立したものはより確実かつ安全なものでした。

パスツールは鶏コレラ菌に続き、炭疽菌を弱毒化したワクチンも開発します。
予防接種をした羊や牛は、その後どんなに強い炭疽菌を注射してもすぐに元気になりました。

3.狂犬病と予防接種

パスツールは狂犬病のワクチンも開発しました(このとき、60才を超えていました。)。
狂犬病は発症すると確実に死に至る病気で、恐れられていました。
犬(猫など犬以外のこともある)に咬まれて感染するため発症者が多く、治療法の確立が強く望まれていました。
パスツールは最初、犬へのワクチン接種で狂犬病の予防に成功しています。
実は、狂犬病の原因は細菌ではなくウイルスです。当時の顕微鏡では細菌より小さいウイルスを見る事は出来ません。ワクチンを作ったものの、狂犬病の原因が何なのか突き止める事まではできませんでした(野口英世が研究した黄熱病もウイルスによるものです。黄熱病も後にワクチンが作られ、予防接種によって防止されています)。

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狂犬病ウイルスの電子顕微鏡写真(Wikipedia)

1885年、一人の少年が狂犬病の治療をして欲しいと、パスツールのもとを訪ねてきました。
まだ狂犬病ワクチンを人に接種をしたことの無かったパスツールは迷いました。しかし、何もしなければ少年が命を落としてしまうことは明らかでした。
助手の強い勧めもあり、パスツールは少年に複数回ワクチンを接種しました。
結果、少年は完治し、ワクチン接種で狂犬病を克服した第一号となりました。
以降、多くの人がワクチン接種を求めてパスツールの元を訪れるようになりました。フランス国内だけでなく、ロシアなど他国からも治療や予防を求めた人々がやってきました
現在でも狂犬病の治療法は確立されておらず、予防接種のみで防ぐことが出来ます。
その後、パスツールに研究を進めて沢山の病気を治してほしいと、国内外から多くの寄付金が集まります。
この寄付金で建てられたのがパスツール研究所です。

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旧パスツール研究所(現在はパスツール博物館、Wikipedia)

1895年、パスツールは微生物学では最高の栄誉とされる、レーウェンフック・メダルを授与されます。
そしてその年、72歳の生涯を閉じます。
遺骸はパスツール研究所の地下にある聖堂に埋葬されました。


パスツールは数多くの業績を残しましたが、特に予防接種法の確立は特筆すべきもので、数えきれないほど多くの人の命を救っています。
かつて猛威をふるった天然痘(てんねんとう)は予防接種によって撲滅され、過去のものとなりました。天然痘は致死性が高い上に感染力が強く、短期間で多くの人が命を落とす恐ろしい病気でした。
日本ではポリオの国内駆除に成功しています。
他にも、破傷風や結核など、様々な病気が予防接種によって防がれています。

日本の予防接種の現状

残念ながら、日本は他の先進国よりも接種しなければならないワクチンの数が少なく、インフルエンザなどの接種率は以前より低下しています。
日本は予防接種後進国になりつつあります
2013年以降、ワクチンの数を増やす努力が行われていますが、十分とは言えない状況です。

原因は複数あります。厚労省や国が訴訟を恐れて集団予防接種を無くしたことや、対象年齢の女性は無償で接種できるワクチンの周知徹底を控えていること。
そして、子宮頸がんを引き起こすHPVワクチンに代表される、ワクチンに対する間違った考えと虚偽情報の流布です。
HPV(ヒトパピローマウイルス )はマザーキラーと呼ばれ、性交渉を通じて男性から感染します。そのため、先進諸国では予防接種が義務付けられており、男性も接種対象にしている国もあります。
早くから予防接種を行っていた英、米、オーストラリアでは顕著に子宮頸がん患者と死者が減少し、大きな効果が出ています。特にオーストラリアは、2028年にHPVによる子宮頸がん患者がほぼゼロになると予測されています。
しかし、日本では接種率が1%にまで低下し、近い将来の子宮頸がん患者と死者の増加が懸念されています
現状でも、日本では毎年一万人が子宮頸がんを発症し、約三千人が命を落としています。予防接種で防ぐことが出来るのにも関わらず、多くの人ががんを発症しているのです。
また、HPVは膣がん、外陰がん、肛門がん、中咽頭がん、陰茎がん、中咽頭がんの原因にもなっており、これらを防ぐためにもワクチン接種は必要です。
HPVワクチンは長年、世界中で接種されてきた実績から安全性が確認できています。予防効果を示す研究結果は多数ある一方で、ワクチンが副作用を引き起こす科学的根拠は一切見つかっていません。
日本のメディアは物事のネガティブな側面をセンセーショナルに取り上げる事が多く、ワクチンも例外ではありません。メリットについてもしっかり取り上げ、その意義と効果を周知すべきだと思います。
特に、デマを流布させたメディアは間違いを訂正した上で正しい情報を発信し、予防接種の重要性を定期的に発信して欲しいです。

noteでも積極的に情報を発信されている方が居られるので、参考にしてほしいです。

また、HPVワクチンの正しい情報を発信するために活動している村中さんのジョン・マドックス賞のスピーチ「10万個の子宮」もnoteにあります。
ジョン・マドックス賞は「公共の利益に関わる問題について健全な科学とエビデンスを広めるために、障害や敵意にさらされながらも貢献した個人に与えられる(Wikipedia)」英科学誌ネイチャーが主催する賞です。

また、インフルエンザの接種率低下も危惧すべき問題です。
接種率が高ければ、病気やアレルギーなどの理由で接種できない人への感染を防ぐことも出来ます

また、海外でも接種率の低下ではしかの流行などが起きています。

現在はワクチンの安全性が大幅に上昇していますが、身体の中に異物を入れるため、副作用が出る事もあるでしょう。
しかし、予防接種を受けないことでその病気に感染すること、身近な人に感染させてしまうことを考えれば、リスクを大幅に減少させることが出来ます。
副作用が起きたとき、接種に不安があるときは、必ず医師に相談して下さい。インターネットで調べて独自に判断するのだけは避けて下さい。
残念ながら、ネット上には間違った情報が数多く存在し、過剰に不安を煽るものが散見されます。副作用が起きても慌てず、お医者さんに相談しましょう。


ルイ・パスツールは化学の様々な分野に貢献し、自然発生説の間違いを科学的に証明しました。そして、医学の知識・経験も乏しい中、人類を病苦から救うためならどんな困難も乗り越えると決意し、脳卒中で倒れて半身不随になりながらも予防接種法を確立しました。
集まった寄付金で建てられたパスツール研究所では、パスツールの死後も微生物や感染症の研究が進められ、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の単離など、素晴らしい業績を残しています。
今日、私たちが多くの感染症に怯えずに生活できるのはパスツールをはじめとした細菌・免疫学を開拓した人たちのおかげです。

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