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『本当の自分』=『なりたい自分』?というお話

「誰も本当の自分をわかってくれない」
「この作品では等身大の自分を表現してみました」
うんちゃらかんちゃら…

最近、そういう言葉をあまり聞かなくなってきたような気がするのは、世の中でだんだん「多様性」なるものが少しずつ根を張ってきているからなのか。それとも、僕自身が年齢を重ねたからなのか。おそらく、その両方とも当てはまると思いますが、今考えると、自分自身が考える「本当の自分」ほど胡散臭いものはないな、と思ったりもする訳です。

かえって、他人が思っている自分の評価の方が、自分が思っている自分よりも、「実像」を的確に捉えていたりして、「本当の自分をわかってくれないくれない」なんていうのは、ただ、その実像が、自分自身が思う「位置付けされた自分」との距離に大きく開きがあるときなのではないかな?と思うのです。
ただ、自分の実像が浮き彫りになるほど、他人って、それほど自分に興味もなければ、見てくれてもいないと思いますし、それ程ヒマではないと思います。
それを思えば、「本当の自分を理解して欲しい」なんて悩みは、ずいぶん自意識過剰な悩みなんでしょうね。

僕自身は自分自身のことを自己肯定感が低い人間だと思っている部分があります。だからこそ音楽面では、自分の代わりに自分がやりたいことを表現してくれる存在が必要だったりして、それが今、活動名にしている『Yu Katsuragi』という存在だったりするのですが、今までの記事の中で書いてきたように『Yu Katsuragi』には設定があります。
その設定についての詳細については、今回は省略しますが、それが顕著に現れているのが音楽そのものよりも、それに付随するジャケット写真などのビジュアルです。
大概、僕の曲やアルバムのジャケットには、生身の「中の人」をベースにしつつも、決してライブや生で見ることができない「作られたイメージ宣材」になっています。

今回の記事のタイトル画像に使ったのは、8月にリリースを考えているシングルのイメージビジュアルなのですが、何せ曲調が珍しくRock調だし、こういう扮装で歌ってみたいな…という願望を込めたものになっているかもしれません。今はデジタルのデータ上で好きにメイクして、いくらでもUndoして納得いくまで簡単にやり直せるし、実社会や実像ではできない冒険をメタバース上で実現してくれるような可能性に楽しみを見出せると思います。例えば、ネット上の出来事でいうなら、SNS上でバズった美女ライダーの正体が実は中年のオッサンだったという話がありましたが、僕はその件に関して、「(悪意を持って、あるいは姑息な手段で)人を騙した」という見方や評価をされることには、ハッキリと異を唱えたいです。

そのライダーの中の人が言った言葉で印象的だったのは、「オッサンだと誰も見てくれない」という言葉でした。

正直言うと、実年齢的にも、見た目的にも、実像は「おっさん」なYu Katsuragiの中の人ですが、願望を言えば、見てくれがオッサンのYu Katsuragiなんて見て欲しくありませんし、表現したいとも思いません。全身全霊、全力を使って阻止したいと思っています。

ただ、そうなればなるほど自分の実像から、『なりたい自分』が乖離してしまい、その埋められないギャップに苦しむこともあるですが、そこでメタバースという概念に登場してもらう訳です。その概念が存在することで実在しなくても、「いる」ことができるのではないか、と思っています。
メタバースの考え方とはまた違うのですが、Yu Katsuragiって、ある意味、サンタクロースとかみたいな、「いない」けど「いる」ような存在なのかもしれません。
実際、僕自身が生身のYu Katsuragiとしてライブをしたりして活動しているのが、実はグリーンランドの協会公認のサンタクロースのような位置付けだったりするのかもしれません。

以前、20代の頃、恋愛感情を持って、好きだった人に影響された部分もあるのですが、それ以降、「等身大の自分」という言葉がすごく嫌いになったと言うか、胡散臭く感じるようななってしまいました。正直、今も年齢を重ねたなりの解釈が加味されてはいますが、その感情そのものは、あまり変わっていません。

「どうせ、等身大とか、ありのまま、とか言ったところで、所詮、それって『なりたい自分』なんでしょ?」

それは僕自身が、すごく実像の自分自身に自信がなくて、『なりたい自分』、あるいは『あるべき自分』との差が埋められないことから出てくる感情かもしれないし、そのギャップに対して、遺伝子的なレベルの話で、現実では対処のしようがないことから生まれた諦めから来る僻みなのかもしれません。

レコーディングやライブなどで一緒に活動したことのある先輩ミュージシャンの方との話で、「すごく50代になるのが楽しみ」という話を聞きました。もう数年前の話になるのですが、正直、僕は驚くだけで意味がわかりませんでした。今でも僕が自身が50代になると思ったら、少し背筋がゾッとする思いがあります。

実像の自分自身をなかなか受け入れられずにいるのが、僕自身が感じている「生きづらさ」の一部なのだと思いますが、ただ、50代になったらなったで、30代、40代になった後のときのように、自然と受け入れざるを得なくなるんでしょうね。

まあ、今まで書いたことを簡単に要約すると、「現実世界では抵抗のしようがないから、せめて音楽やそれに付随するイメージの世界では『自分の思うYu Katsuragi像を表現するために抵抗させてください」と言うことになるのでしょう。

今回は、最近起こったショッキングな出来事を元に、いろいろ考えたことの一部をまとめてみたくて、自分自身とYu Katsuragiの関係性に引っ掛けて書いてみたのですが、またアルバム「Dialogue 1991」の話に戻るときに、もう少し掘り下げて書いてみたいと思います。

今回は暑さのため冷房部屋に避難したためPCが使えず、文章を更新するのにiPadを使って更新したので、PCで更新するような更新のやり方がわからずに、少し読みづらくなっている部分もありますが、その辺はまた後日、改良したいと思います。

【後日記】
「今回」、「なりたい自分」という言葉を使った部分に関して、自分の経験も踏まえて、よくよく考えてみると、「なりたい」というよりは、「見られたい」という言葉の方が意味としては、しっくり来るのかな…。と思いました。他人から「(こういう風に)見られたい」「(こういう風に)思われたい」とかいう自分自身の思いが「なりたい自分」そのものなのかは、ある意味、イコールの部分もあるし、そうとは限らない部分もあると思います。

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