平出奔を読む(2)「Victim」編 永山凌平

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平出奔を読む(0)「何も言えなさ」について
平出奔を読む(1)「偶像崇拝」編 永山凌平

◇「Victim」を読む

 既に数か月前の話になるが、第63回短歌研究新人賞に平出奔「Victim」が選ばれた。いわゆるコロナ禍について、直接的にはそれを言わず、周辺の生活を詠うことでリアルな空気感を描いた秀作である。実際に何首か引いて読んでみよう。

手はいつも汚れていると教わって視界の端へやってくる鳥
救急のサイレン響き近隣の犬たちが遠吠えで応えてる

 連作の1首目、2首目。連作の導入として巧みだ。

 1首目、私たちの手にはもの凄い量の菌やウイルスが付いているという。それを「手は(略)汚れている」と詠っているのだと捉えた。「視界の端」なのではっきり鳥だと認知しているのではなく、影のようなものを「鳥」だと認知していると想像するが、影が視界の隅でちらちらしている状況は不気味で暗示的だ。

 2首目、歌の眼目はサイレンに対して「近隣の犬たちが遠吠えで応えてる」ことの、少しずれた犬の行為の可笑しさである。だが、連作の導入部として重要なのはむしろ「救急のサイレン」だ。救急車で運ばれる人の理由は何なのか、流行中のウイルス感染症なのか、ついそんなことまで考えてしまう。一首の面白さは下句できっちり読ませつつ全体の流れを上句で作っている構成もキマっている。同じように、歌として読ませつつ連作に通底する雰囲気を作っているのは、5首目「洗濯機揺れて小さなアパートも揺れて春の日を生きていること」の「揺れて」や、8首目「家族からたまにメールで面識のない叔母の安否を知らされる」の「安否」などにも言えそうだ。

家じゅうをさがせば意外と残ってたマスクのたぶん古いほうをする
差し出したポイントカードがここじゃないほうので ちょっと笑ってもらう

 連作の半ばから10首目と16首目を引いた。どちらの歌も主体の生活感や主体像が見えてくる。

 10首目、マスクの価格が高騰した頃、家に残っているマスクを探した人も多かったのではないか。マスクに消費期限のようなものがあるか知らないが(ないと思うが)、衛生的にそちらの方が望ましいだろうと「古いほうを」選ぶという行為にリアリティを感じた。「意外と」「たぶん」といったところに主体の性格も見える。

 16首目、描いてる内容はよくある状況であるが、四句目の一字空けが上手い。ちょうど字空けの前後で主語が変わる(「ポイントカード」から<私>へ)こともあり、「ちょっと」以下にはやや唐突感があるのだが、それが「笑」いにつながる瞬発的な雰囲気をよく表している。

まな板にきっとある菌と闘うよこれからも消化器官と共に
曲線は未来へ伸びて、ねえ、アレクサ、何人の犠牲で済むか計算できる?

 連作の終盤から24首目、26首目を引いた。

 24首目、直前に「鶏肉を食べやすい大きさに切り食べても大丈夫なように焼く」があるように、食中毒を引き起こす菌について詠っている。だが、いま多くの読者は「菌と闘う」からウイルス感染症との闘いを連想してしまうだろう。この歌では「これからも」がミソで、人類は新型コロナウイルスに立ち向かうのと同じように過去にも菌やウイルスと闘ってきたし、今後もまた未知のそれらと闘い続けていかねばならないということに気づかされる。

 26首目、連作の要とも言える歌である。「曲線」は死者数などの折れ線グラフのことだと想像する。指数関数的に右肩上がりに「伸びて」ゆく「曲線」、その先はどうなってしまうのか。「アレクサ」という、テクノロジーやAIの象徴に訊いてみるが、その答えは果たしてどのようなものか。収束なのか滅亡なのか。答えをAIに頼らざるを得ないという状況に、人類の無力さや高度なテクノロジーへの違和が読み取れる。おそらく、この一首があるかないかで「Victim」の印象はかなり違ってくる。この一首があるからこそ、「Victim」は単に生活を描いた作品ではなく、読者への問いかけを持った作品として機能している。

◇平出作品の特徴

 さて、「Victim」についてはいったん措いておいて、平出作品の特徴について考えてみたい。私は、大きく2つの特徴があると思っている。1つはリアリズムである。本記事で引いた「家じゅうを~」「差し出した~」の歌は、評でも述べたとおり主体の生活感がよく伝わってくる。それだけではなく、前回の記事「平出奔を読む(1)「偶像崇拝」編 永山凌平」で触れた連作「偶像崇拝」は、明らかに作者=主体として読ませようという工夫がある。もちろん、作者=主体であればすなわちリアリズムというわけではないが、その志向を持ちながら実際に説得力のある作品を生み出している点で、リアリズムを平出の特徴の1つに数えることができるだろう。

 2つ目は文体である。平出の作品志向については「平出奔を読む(0)「何も言えなさ」について」でも軽く触れた。もう少し詳しく言うなら、意味的な面白さではなく、もっと生な、知覚の動きや感情の流れを捉えようとしている文体であると言いたい。短歌研究新人賞の選考座談会では、加藤治郎が「Victim」に対して永井祐の影響を指摘している。具体的には「日本で暮らしていると暑い日と寒い日があって服とかを着る」「川べりをのんびり歩く もう少し右を歩けば川へと落ちる」の二首を挙げつつ、永井ほど「ここにいることの、ここの空気や雰囲気をうまく捉え」られていないと間接的に述べている。確かに挙げられた二首についてはそうかもしれない。だが、もう少し平出作品を広く眺めるとき、永井の影響を読み取ったとしてそれは単なるエピゴーネンだろうか。例えば「偶像崇拝」編の記事でも引いた「バターチキンカレー食べたい あしたの昼まだ食べたいだったらバターチキンカレー食べよう」を挙げてみたい。永井の作品もかつては「修辞の不在」などと評されたが、この歌はさらなる修辞の不在である。永井の作品をアカデミックな作風を離れた印象派に例えるなら、平出の作品は描くことをやめたアクション・ペインティングのようにも思える。描かれている内容よりも筆致に目が行く。そこに平出を始めとした、永井の次の世代の文体があるように思う。

 以上が、私がいま書ける、平出作品を読んでいて感じる特徴である。平出はまだまだこれから多く作品を発表し、多く読まれ、多く論じられるだろう。私も一読者として、上に述べた内容をきっかけに、だけどそれに縛られず、平出作品の良さ・面白さを見つけていきたいと思っている。

2021.1.16 gekoの会 永山凌平
2021.1.19 引用に誤りがあったので修正しました。
 誤:…5首目「洗濯揺れて…
 正:…5首目「洗濯揺れて…

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