平出奔を読む(1)「偶像崇拝」編 永山凌平

 永山個人のノートに「平出奔を読む(0)「何も言えなさ」について」という記事も上げていますので、よければそちらも併せてお読みください。

 平出奔の短歌研究新人賞受賞後第一作である「偶像崇拝」(「短歌研究」2020年10月号)が面白かった。ただ、この連作の何が面白いのか、実はあまり自信がない。私は作者のツイッターをフォローしていて投稿もよく見ているから、「詞書の文体や事実が分かる!」という親近感を面白さと誤解している可能性もゼロではないなと思う。
 だが、何度も読み返してみたけれど、やっぱりこれは面白い連作だと思う。そして、その理由は連作内で目立つように配置されている詞書の機能が大きいんじゃないかと思っている。本稿では、主に詞書の効果の検証から「偶像崇拝」の面白さを考えてみたい。

1.SNSの引用
 「偶像崇拝」の詞書の特徴は、自身のSNSの投稿を引用している点である。1首目の前に置かれている詞書を引いてみる。

「助手席の荷物にはシートベルトを付けておきましょう、という写真です
https://pic.twitter.com/Rk6iIAZxND」 2020/08/09 *1

 「*1」の注記については、連作の最後に「*1:Twitter(@Hiraide_Hon)のツイートより。」と補足されている。

 このようなSNSの引用は、作者の提示する個人情報に読者がアクセスし、実体を確認可能という点で、「作者=(詞書で引用されている)SNSアカウント=作中主体」の認識を強固にする。思うに、前衛短歌以降の短歌は、「作中主体=作者」を避けようとする試行は少なからずあったが、「偶像崇拝」における平出の試みはそれに逆行している。平出がこれらの詞書により「作者=SNSアカウント=作中主体」として、つまり作中の出来事を事実としてもっともらしく提示したかったことは、わざわざ「@Hiraide_Hon」という実在の(そしておそらくその文字列から、イコール作者だと思われる)アカウントの投稿であると明示した点や、(URL先にアクセスすることで実体を確認できる※)画像URL付きの詞書をわざと冒頭に配置した点から明らかである。

 「作者=作中主体」として描いている歌人の多くは、矛盾なくそれらしい情報を提示することで「作者=作中主体」を担保しているが、「偶像崇拝」では、インターネット経由で詞書の事実を確認可能にすることで(ことによっても)それを担保しており、作品内の〈私〉を拡張している。

2.下書きの引用
 しかし、平出が「偶像崇拝」で引用しているのは、厳密にはSNSへの投稿ばかりではない。Twitterやnoteの未投稿の下書きの引用も含まれる。むしろ、下書きの引用の方が多い(Twitter:3件、Twitterの下書き:4件、noteの下書き:2件)。便宜的に「引用」という言い方をしたが、下書きは公知でないゆえに一般的な意味の”引用”ではない。作者はいくらでもでっち上げられるし、読者はそれを確認しようがないからである。引用というより創造の方が近い。
 だが、この連作では下書きの引用も事実らしく読みたくなる。それは、先述した実在する投稿の引用があるからである。この効果は大きい。なぜなら、「偶像崇拝」では下書きの引用ほど、投稿しなかったという背景も含めて、SNSアカウント=作中主体の生の感情が滲んでいるからである。

3.時系列
 「偶像崇拝」には時系列の大きな遷移がある。詞書に付されている日付を追ってみれば、連作内の時系列は次のようになる。
  1首目 :2020/08/09
  2首目 :2020/08/06
  14首目 :2020/05/08
  19首目 :2020/05/08
  29首目 :2020/05/10

 2首目から14首目の間には、約3ヶ月の遡行がある。おそらく作中の現在は2020年8月で、連作のとある地点から2020年5月を回想する組立てになっている。2020年5月の時間軸では、詞書の中で「断絶」や「信仰」などの言葉を使いながら、Twitterのフォロワーであろう某氏との価値観の相容れなさに苦悩や苛立ちを覚えている。
 では、2020年5月への時系列の遡行はいつ起こっているのだろうか。連作の4首目から5首目を引いてみる。

友達は減ることもあると知ってからご飯の写真も撮りはじめたな
 「平出姓のアカウントをフォローしまくってたの、見ましたよ 朝」 *2
駐車場に僕の車だけの朝にはじまったかもしれないゾンビ映画

 4首目(上記引用1首目)の「友達は減ることもある」という人間関係の悪化についての一般事実の提示、おそらく平出奔をフォローしようと平出姓のアカウントを片端からフォローしている人を見かけながら声をかけない詞書の少々の意地悪心、ゾンビという不気味な不死の敵が「はじまったかもしれない」という5首目(同2首目)。この人間関係の不和を想起させる流れに時系列の遡行を読めば、連作全体の流れとして非常に腑に落ちる。この、さり気ない、けれど確かに読み取れる時系列の遷移はかなり巧みだ。

 時系列を整理すれば、5首目から28首目までが、「2020/05/08」の出来事とそのときの感情にまつわる歌なのだろうと思われる。詞書と、時系列によって出来事や感情の流れが可視化されることにより、次のような、声高に主張していない歌が一層と面白くなる。(それぞれ13首目、19首目、24首目)

爪を嚙む癖の話をするときに手をポケットから出しかけていた
おじさんが赤信号を渡ってく きっとその理由があるおじさん
信じるよ ウォーターサーバーの水のボタン押したらちょうどよく出てくる水

 連作の終盤では、28首目の「やり直せるかもしれないって起き抜けにものすごい速いシャワーを浴びて」で前向きになり、29首目の詞書「「一年ぶりにマクドナルド行って欲望のままに注文したら1050円になった」 2020/05/10 *1」から急にのどかで能天気になる。30首目を引いてみる。

バターチキンカレー食べたい あしたの昼まだ食べたいだったらバターチキンカレー食べよう

 この歌もかなり能天気である。だが、28首目までの人間関係の苦悩を読んでいる読者は、この歌を単なる能天気な歌とは読めない。むしろ、苦悩に打ち克つために選択された能天気さに思われる。特に「食べたいだったら」という文法的にはおかしいスラング的な言い回し(余談だが、平出は他の歌でもこのようなスラング的な文体を積極的に持ち込んでいる印象がある)の選択に、作者の強い意志を感じる。

4.まとめ
 まとめると「偶像崇拝」の面白さは次のように言えるかもしれない。まず土台として、SNSの投稿を引用した詞書によって内容の事実らしさが増している点がある。その効果は、事実性を確認しようがない未投稿の下書きにも及んでいる。そして、作中の現在から過去へ、苦悩から能天気への遷移の上手さである。その流れがあるからこそ、短歌一首一首が、それ単体で置かれたときよりも豊かな情報を発する。30首目などは、能天気さに意志の強さを読み取ることができ、その豊かさの顕著な例だ。短歌に書かれているもの以上の情報を読ませることは、すごく強力なテクニックである。「偶像崇拝」は、緻密に計算された連作なのだと思う。

※なお、2020/11/21現在、@Hiraide_Honのアカウントは非公開になっており、1首目の詞書にあるURLはフォロワー以外がアクセスしても内容を見られない状態になっている。

2020.11.21 gekoの会 永山凌平

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