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5月某日 インタビューを受けた話

 私についての話をするのが苦手だ。聞いた話なら、その語り口のまま話せばいい。だが、私の話は誰も口に出していない。私は私の力で、話を仕立て上げなければならない。即興でやるには難題過ぎる。だから大抵聞き役で生きてきた。どんな身の上話でも、打ち明けられる側でいた。
 身近な人にも自分のことは明かさない。そんな私がインタビューを受けたらどうなるのか。一個人の一個人による実験をした結果、次のようなことがわかった。

1,相槌を求めるためと話し言葉に変換するために、間の多い話し方になった。
2,自分の感情については言語化しにくかった。
3,深く考えずにしゃべり出し、私自身、何が言いたいのかわからなくなったことがあった。
4,思ってもみなかったことを話し、私自身の発見があった。

 大まかに言えばこのような気づきがあった。
 まず1つ目について。先入観をなくすために事前準備をしなかったこともあり、かなり回答に時間をかけてしまったと自覚している。「気楽に」と言われたものの、初対面の人に対して話すにはやはり準備が必要だと感じた。また、インタビューというものは相互にやりとりするものだという感覚があったため、反応を待つシーンもいくつかあった。私の場合、話したいことをいくつかピックアップしておいた方がスムーズに会話ができるだろうと思った。なんせ通常の会話でさえ、一度脳内シュミレーションしてから話し始めるのだ。質問に答えるだけとは言え、ぶっつけ本番は無理があった。
 2つ目は、感情について。日常的に私の感情は観察するものであるため、「どうですか」と聞かれてそれが感情について聞いていると判断できなかった。答えを出すのが特に難しかった部分でもある。
 3つ目も準備不足によるものだ。オチも何もなく話し始めてしまった話題が本当につまらなくてびっくりした。「適当に作っても文句を言われない」の部分なのだが、だからどうしたと言いたくなる。ただ単に私の理想が高かっただけの話である。口に出した瞬間、取るに足らないとわかってしまったのだが、口に出してしまった以上話さなければならなくなり、そのときは次の話題に移ってほしいとばかり考えていた。
 4つ目は、珍しく口が先行したパターンだ。「小説を書くときに考えていること」の答えが私自身、初めて知ったことだった。最近楽しくなかった理由がわかった。そう考えていた私を再発見した部分だった。

 終わってみて一番に思ったことが、疲れたな、だった。私はつくづく、私の話をすることが苦手だ。小出しにすることはできるのだが、すべてを話そうと思うとかなり疲れる。今回話したことは一部に過ぎないのだから、本当にいろんなことがあったのだ、としみじみ思う。単純に履歴だけ話せば楽だろうが、誤解されたくないがためにたくさんの言葉を重ねてしまう。
 時期も良くなかったのかもしれない、と思った。ちょうど空白期間にあたる時期で、趣味らしい趣味も楽しめず、体調不良に振り回されていた頃だった。残るものだから、という気負いがあったのかもしれない。でも、不思議とネガティブな気持ちはなく、そのことに罪悪感を感じるほどだった。楽で、閉塞感もなく、負い目もない、状態であること。それをありのままに伝えることが息苦しかった。楽であることがよくないと私自身が思っていたからかもしれない。
 幸せになることがこんなに難しいなんて思いもしなかった。今、この瞬間だけではあるかもしれないが、気楽に生きていることを恥じないことが大切なのかな、と思った。

 結果としては、事前準備なしにインタビューを受けるのは向いていないということがわかった。私はやはりじっくり考えて、文字で伝える方が向いている。受けてみなければわからなかったことだから、やはり受けてみて良かったと思う。

 インタビューしてくださった栗林さん、記事を編集してくださったちょこさんにはとても感謝しています。また、この縁で無名人インタビューの編集をさせていただくことになり、楽しいことが1つ増えました。たくさんの人生をのぞき見させてもらいながら、私を大切にすることから始めています。再発見の経験をありがとうございました。

 受けたインタビューはこちら↓


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