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本を人に贈ることについて

 本は人を繋ぐものだ、と思っている。今も。
 小さい頃は、本はみんなで読むものだった。実家の棚にあった本を勝手に抜き出しては読んだり、クラスメイトの本を回し読みしたり、学校図書館に各々好きな本をリクエストしたり。面白い本は人にも読んでもらいたい、そう思える環境に私はいた。
 フォロワーが贈ってくれた『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を読んで、人にすすめる本を選ぶ楽しさを思い出した。
「これが好きならあれも好きだろう」
「それに興味があるならこれが面白かった」
 自分のことを考えながら選ぶのもいいが、人のために、となるとまた違う。たくさん考えることがあって、これまた楽しいのだ。
 そもそも人に本を選んでもらうのが好きだ。誕生日には本を買ってもらうのが当たり前で、全然知らない世界が包装紙の中から出てくるのはとてもわくわくすることだった。それを他人にも味わってもらいたいと思っている。
 この本のことはもちろん知っていた。河出書房新社の公式アカウントはフォロー済みで、TLに流れてきた。作者が開いた新しい書店についての情報も得ていた。それなのに読まなかった理由は、
「軽薄なエッセイ? 表紙から内容の濃さが読めない」
「本をすすめまくる? うらやましい」
 などなどいろいろあった。今回、読めてよかったと思う。まだ途中だけど。
 なぜならこの本は、数奇な人生を語ったエッセイでもあり、人間観察の記録でもあり、「本をすすめるとは」をかなり真剣に考えている本だからだ。他人のどこを見て嗜好を読むのか、かなり明確に描かれている。たいへんありがたい。
 そして、作者の読書の幅広さに驚いた。知らない本はまだしも、「この作者は私しか見つけてないだろうなうへへ」などと思っていた方の名前があげられていたり、ノマド・歴史・性など、どこから見つけてくるんだそんな本、と言いたくなるようなチョイスにあふれている。あらゆるもののアンテナが大きいのだろう。つくづくうらやましい。
 実は私も何度か本を贈ったことがある。父親には「本はプレゼントには向かない」なんて言われたこともある。要は、独りよがりだったのだ。「私が読んで面白かったのだからきっと面白いだろう」という自分軸で選んでしまうことが多かった。本を読まないクラスメイトにおすすめを聞かれて答えられないこともあった。本を贈るという行為は、私にとって自分の好きを知ってもらうことだったのだ。
 ここで、最果タヒさんの言葉を引用する。

何か知らないものに興味を持つきっかけや、触れてみるタイミングって、それこそ、その電車に窓ができることなのだ。うつくしい海が見えたなら、次の駅で降りてみよう、と考えることもできる。興味がなければ降りなければいい。降りて、近くで見ると潮風が苦手だった、とか、そういうのもあっていい。私はただ窓を作りたかったのだと思う。他の人の電車に。そこで降りてほしいとか、好きになってほしいとかではなく。

ブルー・スパンコール・ブルー 第14回 最果タヒ「おすすめは難しい

 なるほど、と思った。本を贈って、もっと本を好きになってもらいたい。あわよくば私に本を贈ってほしい(結局これが最終目標)。
 私が本をすすめるのは、自分の知らない世界を見たいから。他人の価値観を浴びたいのだ。作者はもちろん、編集者、読者もひっくるめて本だと私は思う。
 それは人間も同じだ。過去、現在、未来、周りの環境も含めて一人の人が作られる。本と人は似ている。

読了後の追記
 第7章に出てくる「みのりさん」に私は近い。すすめたいのではない。知らない本を知りたいのだ。
 あとがきの「東京の東のはずれ、下町にある小さな本屋」に通っていた時期がある。残念ながら花田さんはすでにいなかったが、店長さんに顔を覚えてもらっていたような気がする。特定の雑誌をここで買う、と決めていたのだ。一冊しか入荷がなかったその雑誌が2冊に増えていてにっこりしたものだ。ああ、また行きたいな。本屋に行きたい。知らない本がずらりと並ぶ空間が大好きでたまらなくて、私は本屋に、図書館に、行くのだと思う。
 
 最後に、この本を贈ってくれたきさいさん、本当にありがとうございました。鷹宮くんにも本を贈ってもらいました。新しい本棚が潤って幸せな気持ちです。
 もっと本を贈りたいし、贈られたい。私にとって本とは、コミュニケーションの一つであるかもしれない。

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