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狂犬ポチとの出会い

 「ネトウヨ」と呼ばれる人々が雲霞のごとくに現われたのは、二十一世紀に入ってからの現象である。彼らは自分たちを愛国者である、保守であると称して憚らないが、しかし、彼らが台頭する前に、世の「空気」に抵抗し、孤塁を守ってきた保守の言論人たちがいたという事実をどれだけ知っているだろうか。答えは言うまでもなく、「否」である。

 本連載は、ここ四半世紀の「保守論壇」の変遷を目の当たりにしてきた一編集者の回顧録である。

 といっても、筆者は出版界の一隅にて、ようやく生きながらえてきた者である。よって大所高所からそれを語ることあたわず、あくまでも「葦の髄から天井をのぞく」たぐいの与太話。眉によくよく唾つけてご愛読いただければ、これに勝る喜びはなし。どうぞお付き合いのほどを。

 連載開始にあたって、筆者記す。

大演説

 それは一九八七年(昭和六十二年)の春のことだった。

 その日、私は半ば呆然として、配属された先の祥伝社「ノン・ブック」編集長打田良助さんの「演説」を、たぶん三時間はたっぷり聞かされていた。「演説」と言っても聞き手は、二十六歳の、まだちんぴら編集者であった私一人で、場所は小説編集部(「ノン・ノベル」)が隣り合っていた、総勢五人ほどの編集部のソファである。

 朝九時から始まっていたはずだから、もう昼食の時間である。同じフロアの先輩たちはみんな三々五々、ランチに出かけていった。残っているのは我々二人だけである。

 で、その私が呆然としていたのは、「この話、いつ終わるんだろう」という気持ちだけではなかった。目の前の編集長が語っている内容に、ほとんどカルチャーショックのようなものを感じていたのである。

 私がこの会社、祥伝社に新卒として入社したのは三年前の一九八四年で、それまではずっと雑誌セクションにいた。

 祥伝社は東京は九段下にあって、業界にあっては中堅どころ、創業は一九七〇年。私が入ったころは社員は八十人くらいいて、社員一人当たりの売上げが一億円で「業界でいちばん稼いでいる」会社として業界では有名だった。

 といっても、世間の人が考える出版社、つまり岩波とか文藝春秋とかとはまったく違う。

 主力の雑誌は芸能ゴシップと女性向けエロ記事で有名な隔週刊誌「微笑」と、その月刊版「新鮮」で、書籍で売れていたのはあの『ノストラダムスの大予言』シリーズ(五島勉)とか『やせたい人は食べなさい』(鈴木その子)、小説は平井和正さんや夢枕獏さんの「伝奇小説」もの。要するにど真ん中の大衆出版社。

 名刺を出して「祥伝社の佐藤と申します」と言っても、ほとんどの人は知らない。と言っても、本や雑誌は出版社のブランドで買うのではないから、市井の人が知っている出版社が一〇本の指に満たなくても不思議はないのだが、しかし、「どういう御本を出されているのですか?」と質問されると、少し答えにつまるところがあったのは事実だ。「微笑」「新鮮」といえば、祥伝社という社名は知らなくても、「下品な雑誌だ」として悪名高かった(今は直木賞作品も輩出する、立派な中堅出版社である)。

 だが、そういう会社でも、中で働いている分には愉しかった。ことに雑誌は毎日が文化祭みたいなノリで、校了ともなれば、それが深夜三時、四時でもみんなで打ち上げに行く。

 時はプラザ合意(一九八五年)で、バブルの入り口の時代だから景気がいい。サラリーマンだから給料がそれですいすい上がるわけではないが、でも何となく、みんな浮き足立っていた。

男が語る「女性論」

 で、この会社の雑誌編集のトップはSさんという、業界でも「祥伝社のS」と言えば誰もが知っているほどのやり手であった。今でこそ女性誌は女性が作るのが当たり前だが、当時は女性誌と言っても、八割は男性編集者が作っていた。

 言うまでもないが、男性編集者には女性の気持ちが分かるわけがない。だが、この当時はまだ、世の中、男性編集者のほうが圧倒的に多く、女性誌を男性たちが作るということに違和感を持つ人はほとんどいなかったのではないか。私もその一人であった。

 でも、このSさんが新入社員研修などで語る「女性読者論」というのは、さすがに強烈で、新人社員で世間知らずの筆者でも、「これはさすがにまずいのではないか」というものだった。

 端的に言えば「女性は馬鹿で、ケチで、嫉妬深くて、人の不幸がいちばん好きな生き物である」といったような話で、その女性の「習性」に合わせて雑誌の企画を立てればよいというのである(Sさんはその後「女心のエキスパート」として、今なお現役で講演や執筆活動などをしておられるようである)。

 今なら性差別者として、いや、それ以前にコンプライアンス問題になりそうな「理論」なのだが、しかし、男性が女性誌を作るという無理をするためには、そのくらいの仮説を立てないと迷いが出てしまうに違いないし、実際、その理論に則って作った雑誌は売れていたので、誰も文句は言えなかった(「Sさんは女心を考えるために、立って小用などせず、女性のように座って小用をするのだ」と、したり顔に解説する人までいた)。

 企画作りの原点がそうなのだから、当然、雑誌のデザインなどどぎついものであった。その当時、女性誌分野でマガジンハウスは「an・an」を出して、おしゃれ雑誌の先頭を走っていたが、そんなおしゃれさはどこにもない。カラー記事の大見出しなどは、業界用語で「キン赤」と言われる、どぎつい赤を使っておけばよい、地味なハーフトーンなんぞ、ドブに捨ててしまえという世界であった。

 でも、そういう野蛮で、偏見に満ちた雑誌編集の世界が、弱っちいインテリばかりの大学を出たての筆者にはきわめて面白かった。ここには文化とかセンスとかが入る余地がなくて、「売れれば勝ち」というシンプルな論理は出版社というよりも、日銭商売のテキ屋みたいな感じで新鮮であったのである。

 しかし、三年も経てば、だんだん仕事の要領も覚えてくる。編集者といっても実際に取材をしたり、原稿を書くのは外部のライターさんだし、できた原稿をレイアウトするのはデザイナーさんで、みんな自分よりもキャリアがあって信頼できる。

 いつしか気が緩み、最も仲のよかったデザイナーのNさんからも「このごろの佐藤さんはダメになったね」と端的な言葉で、絶交されてしまった。

 そんなわけで入社三年目に書籍編集部(正確にはノン・ブック編集部)に配属になったのは「一からやり直せ」という神様のお告げだと、素直に辞令を受け取ったのだった。

そこに出版意義はあるか

 ところが、その「神様」が私のところに下しおかれたのが、脂ぎった、ギョロ目の、鬼瓦みたいな顔をした打田良助編集長だった。

 そこで話は冒頭に戻る。

 移籍した初日にいきなり三時間以上もの大演説を聞かされること自体、ありえない話だが、それにもまして私にショックだったのはその内容だった。というのも、なんとこの編集長は一言も「儲けろ」とか「稼いだ」という話をしないのである。

 それまで読者をいかに騙して──というのは語弊があるが──カネを稼ぐか、一冊でも多く売るかというのが至上命題であった雑誌編集部にいた私からすれば、これはまるで異世界に来たかのような気分であった。

 では、いったい何の話をしているかというと、それはたった一つの言葉に要約できる。すなわち、「出版意義」である。

 つまり、我が編集部においては「売れればいい」という、卑しい心持ちでは本は作らない。私が編集長をしているかぎり、たとえ一〇〇%売れる企画であっても、出版意義が見いだせないのであれば、絶対に出さない。逆に現代日本にとって必要な本、出さねばならない本、つまり出版意義を見いだせる本であれば、どんな艱難辛苦があろうともモノにするのだということを、つばを吐き、時に立ち上がり、たまには雄叫びをあげつつ、この編集長は語ってやまないのである。

 のちに、この打田さんは売れれば逆にどんな本にでも「出版意義」を見いだすことのできる天才であることを知った。実際、この時期の売れ行きナンバー1は細木数子の六星占術の本で、ミリオンセラーになっていたし、白塗りで有名になる鈴木その子のダイエット本や五島勉の「ノストラダムス」本も相変わらず売れていて、編集部の屋台骨を支えていた。出版意義という高邁なことを言う割に、打田編集長はベストセラー連発の人だったのである。

 だが、打田さんは「売れたから偉いだろう」とは言わないで、それらの本には「出版意義があったから売れた」のだと滔々と語ってやまない人だった。

 これもあとから分かったことだが、新刊本が売れるか売れないかは誰にも分からない。かと言って、何でも出せばいいというものでもないし、他社の二番煎じを出していればいいというものでもない(二番煎じが売れるとも限らないし、二番煎じを狙っているライバルはたくさんいる)。自分の趣味で本を作って売れればいいが、そういうことができるのはごく一部の天才のみだ。

 だから、本を出すには「売れるための仮説」を立てないとやっていられない。それが打田さんの場合は「出版意義」であって、考えようによっては雑誌編集部のドンであったSさんが「女なんてものは」とうそぶいていたのと五十歩百歩なのである。それが分かってきたのは、書籍編集を始めてから何年目のことだったろうか。

 とはいえ、「出版意義とは何であるか」という話だけで三時間も四時間も演説できるのは尋常ではない。

 そのころの祥伝社は前述したとおり八〇人かそこらの会社だったから、打田さんのことをそれまでよく知らなかったのは私の迂闊といえば迂闊だが、こんな小所帯の会社でも雑誌編集部と書籍編集部では「住む世界」そのものが違う。

 雑誌編集部はいつもワイワイと賑やかで、自席でしんねりむっつり仕事をしている人は誰もいない。あちこちで雑談の花が咲いたり、カメラマンやライターさんと熱心に打ち合わせをしていたりする。

 これに対して、書籍編集部はまるで禅寺のように静かで、誰一人、席から離れることなく黙々と仕事をしている(ふりをしていた)。生活リズムも雑誌と書籍では違っていて、雑誌のベテラン編集者はだいたい夕方くらいにのっそり現われるものなのだが、しかし、書籍のほうは朝九時に出勤して、一二時きっかりにみんなでつるんでランチに行き、用のない人は夕方六時くらいに退社する。その繰り返しである。

 これが書籍編集部に配属されたばかりの私にはつらくてつらくてしょうがなかった。今でこそADHD(注意欠陥・多動障害)という言葉があるが、私はまさにそれであって、小学校の時代から五分としておとなしく椅子に座っていられないタイプである。だから普通の会社勤めは無理だと、出版社を選んだのに、九時六時で働くことになるとは! 

 ことに配属されたばかりだと仕事などそんなにあるわけがない。たまに先輩に頼まれて、ゲラの校正の手伝いをする程度である。何もやることがない時間のほうが長い。なのに椅子から立つことはできない。まさにADHDには生き地獄である。

「狂犬ポチ」

 で、話を戻せば、こんな具合に空気の密度も匂いも違う、雑誌編集部と書籍編集部なので、打田さんという「名物」編集者が同じビルにいるとは、三年、祥伝社で働いていた私もそれまではよく認識はしていなかったのである。

 打田さんは直属の部長や社長が居並ぶ会議で、平気で一時間くらいは自分が今、やろうとしている企画がいかに出版意義のあるものであるかを語ってやまず、みんなを辟易させていたらしい。でも、それで許されていたのは、前述のようにミリオンセラーを連発していたからに他ならない。

 この打田さんは昭和一六年、京都の生まれで、父は戦前・戦後の映画監督として、映画マニアには有名な衣笠貞之助。元は女形として映画界に入り、その後、監督に転身、戦前には友人・川端康成らの協力のもと、新感覚派映画『狂った一頁』という伝説的な作品を撮ったことで有名である。戦後は長谷川一夫と組んで、時代劇を撮った。その長谷川を主人公にした『地獄門』ではカンヌ国際映画祭のグランプリを獲っている。

 打田さんはその息子なのであるが、嫡出子ではない。昔の言い方で言えば「お妾さんの子」であって、お母上はたいへんな美人であったらしい。衣笠も昔の写真を見るとやや面長の、品のいい顔をしている。なのに、ご本人は前にも書いたように、まさに鬼瓦のようなご面相で、酒場では誰にでもかみつくので「狂犬ポチ」などと友人からからかわれていた(ポチで分かるように、小柄な人であった)。

 頭は若い頃から賢くて、なんと二度も東大に入っている。私の記憶では、最初は医学部だったが血を見るのが苦手で中退して、今度は文学部仏文科に入り直した。しかし、そこも中退。途中、吉本興業で漫才師になろうとしたとか、おそらく川端康成の線からだろうが、骨董屋の丁稚になったとか、真偽定まらぬ噂もあったが(だが、本当であったようだ)、結局、主婦と生活社に入社。そこにしばらくいて、祥伝社の創業(一九七〇年)の翌年だったかに入った(このあたりの略歴は曖昧である。正しい経緯を知っている関係者は教えてください)。

 私の暢気な編集者人生は、この「狂犬ポチ」に出会ったことで大きく変わることになるのだった。

(『月刊日本』2021年4月号より)

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佐藤眞(さとう・まこと)
1960年、福岡市生まれ。中学・高校は鹿児島ラ・サール学園に通う。東京大学文学部国語学科を卒業後、祥伝社に入社。その後、クレスト社編集長、集英社インターナショナル出版部長などを歴任。現在はフリーランス編集者・作家として活動中。趣味・箏曲演奏(生田流正派)。近著に『薩摩という「ならず者」がいた。』(K&Kプレス)。現代ビジネスに「薩摩・西郷隆盛が元凶…? 新一万円札の顔、渋沢栄一を悩ませた『ニセ札問題』」を執筆。

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