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渡部昇一先生と論語

書籍編集は職人の世界

 さて前回では、私の上司になった打田良助編集長は「出版意義」の人であると同時に、ベストセラーの人であったことを紹介したわけだが、実は私は打田さんが編集長を務めるNON BOOK編集部に一週間だけ、新人研修で配属されたことがあった。

 新人研修といっても、雑誌が編集長の命令のもと、編集部員が分業で記事を受け持つのに対して、書籍は基本、一冊の本を一人の担当者が最初から最後まで受け持つ。しかも企画立案から一冊の本が世に出るまでには、下手をすれば数年かかる、という仕事である。雑誌編集が組織的であるとするならば、書籍編集は職人的な世界である。つまり、「仕事は見て覚えろ」で、何かマニュアルがあるわけもない。

 だから、新人研修と言っても、誰も何も教えてくれない。だが、一つだけ新人には重大な「ミッション」があった。それは毎晩、打田編集長に付き合うという仕事である。

 夕方六時くらいになると、打田編集長が重々しく「佐藤君、飯でも行かへんか」と声をかける。私はいよいよ編集長が「研修」をしてくださるものだと思うので、当初は元気よく「はい!」と返事をしたのだが、じきにこれはエラいことだと分かった。

 というのも、会社の近く、神保町とかで軽く夕食を済ませたあとは、「ちょっとだけや」と言って、飲み屋に連れて行かれる。私のおぼろげな記憶では毎晩のように同じ赤坂のラウンジ・バーみたいなところに行って、えんえんと打田さんの話を聞かされた(その頃は、まだ狂犬ポチではなかった)。

 何の話をされたのかは記憶がない。わずかに覚えているのは「ノンフィクションを読むんだったら、一人の作家を決めてそれを徹底的に読むんや。あちこちに浮気して乱読しても意味がない」というくらいか。ちょっと注釈を入れると、打田さんの言うノンフィクションというのは、本田靖春とか柳田邦男みたいな調査報道型の、重厚なドキュメントのことではなくて、「小説ではない本の書き手」と言うことで、たぶんそのときに渡部昇一先生や竹村健一先生の名前が出たはずだったが、その頃の私はご両者の名前さえ知らないので、「はあ」と生返事をしていたように思う。

地獄の新人研修

 しかし、当時の打田さんも私を「教育」するつもりで夜の巷に引っ張りだしたわけではない。要するに誰でもよかったのである。「酒は一人で愉しむもの」というのが、本当の酒飲みだと言うが、打田さんはとにかく一緒に呑んでくれる人がいたらよかったのである。それも途方もない寂しがり屋なのである。

 だったら、新人の私なんか誘わずに、他の部下なり、気の合う友人と呑めばいいのではないかと読者諸氏は思うであろう。ところが、この時代の打田さんにはそういう気軽に誘える相手がいなかった。

 なぜかと言うと、ひとたび打田さんに捕まって酒を飲みに行くと、とにかく帰してもらえない。「あと一軒で終わりだから」とか猫なで声で言うので渋々付き合うのだが、「あと一軒だけ」で終わることはなく、気がつくと、もう時間は三時、四時で外は白々としている。

 当時の祥伝社の書籍編集セクションは伊賀弘三良という、これまた天才的な書籍編集者が、役員兼部長としてにらみを効かせていて、「朝はかならず九時に出社せよ」という厳命が下っていた。打田さんも伊賀さんにだけは頭が上がらないから、ちゃんと九時には会社に来ている。

 今がもう朝の四時とすれば、逆算すれば、家に帰って風呂に入って、九時に出社するには二時間も寝ていられない。ましてや新人研修中の身だから、毎日、「研修ノート」なるものを書いて総務に提出するのが義務であるから、それを書く時間もいる。

 さすがに「これは困ったことになった」と、「あのお、もう帰っていいですか。風呂に入りたいし、寝たいし」と言うと、打田さんは「だったら、うちに来い。君のうちはどこや?」「世田谷の経堂です」「我が家は中野。世田谷に帰るよりもずっと近い。うちで寝た方が、その分だけ長く寝られるで」と、また強引に連れられていく。

 中野駅からほど近い所にある打田さんのマンションに行く。すると、そこに待っているのは夜中にたたき起こされた、打田さんの奥さんである。打田さんの奥さんは、とにかく機嫌が悪い。当たり前である。夜中というか明け方に「帰ったでえ」と大声を出して帰ってきて、「これがうちの新人の佐藤君や、期待の星や」とか言われて、愛想良くできる奥さんというのは、まずどこにもいないだろう。

 しかも打田さんの奥さんは、それを毎晩のようにやられているものだから、私が歓迎されるはずもない。「またか」という、うんざりとした顔で布団を敷いてくれたら奥に引っ込んでしまった。後に残るのは冷え冷えとした空気なのだが、酔っ払った打田さんは気にもしない。していないふりをする。

 私はとにかく寝たいので、二つ並べて敷かれた布団にいそいそと入る。打田さんももう一つの布団に入る。ようやくこれで寝られると心から安堵すると、それは計算外れで、ここからがまた地獄である。

 というのも、布団に入った打田さんは横に寝ている私に向かって、さらに説教というか、出版という仕事がいかに素晴らしいかを滔々と語って止まないのである。

 かくして一睡もしないまま私も打田さんも中野から東西線に乗って、九段下にある祥伝社に定時出勤と相成るわけである。

サラリーマンって大変だ

 いかに私が大学を出たての若者だと言ってもさすがにこれは辛い。しかも、前回書いたように書籍編集部はみんなきちんと机に向かって無言の行で仕事をしている。私はと言えば、やる仕事もないのでまっすぐ前に向かって座っているしかない。打田さんは編集長特権で、朝からイスに座ってすやすやと寝ている。どう考えてもこれは不公平というか理不尽である。

 しかし、新入社員が文句を言えるわけもなく(その頃はブラック企業とか、パワハラなどという言葉も概念もない)、必死に目を開けているのがやっとである。で、そのような地獄の勤務時間もようやく終わりに近づき、退社時間が近づく。

 やれやれ、これで帰れるぞと思っていると、ようやく目を覚ました打田さんが猫なで声でやってきて「佐藤君、ちょっと晩飯に行かんか? いや、今夜という今夜はまっすぐ帰してやるから心配は要らん。飯だけや」と言うのである。もちろん私には選択肢があろうわけがない。「飯だけや」に始まって、明け方まで呑むルーティンが始まる。

 これを一週間続けて私はつくづく「サラリーマンというのは大変な仕事だ」と思ったものだった。ちなみに私の一族には大学を出たのは、叔父が一人いるだけで、その叔父は定職に就かずに、アパートの一室でベニヤ板のヨットを作っているという変わり者。父親は中卒の板前で、朝は早起きして市場に行き、夜はかならず誰かを連れて帰ってきて六畳二間の家で酒盛りしている。その隣の部屋では私たちきょうだいが枕を並べて寝ている日常。こういうのがイヤで大学を出て会社勤めをしたのに、待っていたのは同じような、いや、それよりもひどい睡眠不足の毎日である。身の回りにサラリーマンがいなかった私は、日本中のサラリーマンはみんなこんなハードな毎日を過ごして、日本経済を支えているのか、大したもんだ、と感心した。

狂犬ポチに親友が出来た

 さて、その地獄の一週間を過ごしたNON BOOK編集部に、あろうことか私は入社三年目にして配属になった。そして前回書いたように異動早々、打田さんから「出版意義」という大演説を聞かされたわけだ。

 しかし、「男子三日会わざれば刮目して相待すべし」(『三国志』)ではないが、その頃の打田さんは会社の外に刎頸の友とも言うべき人を見いだしていて、その人たちと毎晩のように呑んでいたので、幸いなことに新人時代のように毎日朝帰りということにはならなかった(でも、その三年間で、毎晩、打田さんの生贄になったがゆえに会社を辞めた人は数知れなかった。私は幸運だったのである──いや、その後の展開を考えると不幸だったのかもしれないが)。

 ちなみに、その打田さんの文字どおりの親友となったのが、集英社「週刊プレイボーイ」の名物編集長であった島地勝彦さん(後に私はこの人の下で働くハメになるのだが、それは後ほど)、そして天下の「月刊文藝春秋」大編集長であった堤堯さんである(後に私はこの人の本の担当になる)。

 この二人がいかに凄腕の雑誌編集者であったかは後々語ることになるはずなので今は書かないが、とにかく打田さんのような「狂犬ポチ」を怒るどころか、逆に面白がって付き合ってくれ、しかも教養に満ちた人たちが、毎晩のように相手をしてくれたおかげで、我々編集部員は枕を高くして眠れるようになったわけである。

「ねえ、渡部昇一先生って偉いの?」

 かくしていよいよ私は正式に書籍編集者になったわけであるが、その頃の私はバブル景気に浮かれていた軽薄編集者で、まともな本、ことにサラリーマン向けの本なんて読んだことがなかった。

 大学時代も朝から晩まで箏曲研究会で、お琴の練習を五年間していて、授業にも出ていなかった。入学して最初に買った岩波書店の「世界」は中身がちんぷんかんぷんな上に、頑張ってなんとか半分くらい読んだと思ったら次の号が出てしまったので早々に買うのは止めにした。そんな時間があったら琴を弾くか、ゲームセンターに行ったほうがいい。

 だから、打田さんから「佐藤君はこれから渡部昇一先生の担当や」と言われてもピンとこなかった。『知的生活の方法』(一九七六年、講談社現代新書)という大ベストセラーは高校時代に読んだ記憶はあるが、中身はすっかり忘れていた。

 NON BOOKからは『歴史の読み方』(一九七九年)という本をすでに出しておられたが、もちろん愛社精神のかけらもない私は読んだこともなかった。

 「ついては、今、渡部先生は青春出版社の月刊誌『ビッグ・トゥモロウ』で、論語の連載をなさっている。担当はKさんという人やが、連載をまとめてうちから本を出すという約束はできているから、Kさんが取材に行くときには同行するように」と言われた。

 それを聞いた私が「はぁ、分かりました」という、いわば生返事しかできなかったのは言うまでもない。ほとんど著作も知らない著者であり、しかもテーマが『論語』である。ハッキリ言っておきたいが、三〇歳にもならない男で『論語』に興味があるなんていうのは、どこかおかしい。

 これは後になって諸先生方から学んだことだが『論語』というのは、士大夫、つまり指導者、エリート層に向けて、孔子先生が国家統治の原理や理想を説いたものであるから、そんじょそこらのサラリーマンには本来、関係ないものである。

 『論語』の中には「君子」と出てくるが、これは文字どおりの統治者という意味で、一方「小人(しょうにん)」というのは統治される側の人間の話。島国の日本社会には階級という概念がそもそもないが、どこの国にも昔は階級があって、支配する人とされる人の間には明確な線がある。

 『論語』は支配階級が読めばいいもので、一般のサラリーマン(つまり、小人)が『論語』に学ぶというのがそもそもお門違いであるのだが、日本人は昔から『論語』が好きだ。だから「ビッグ・トゥモロウ」というサラリーマン向きの雑誌でも『論語』の連載は人気が見込まれ、渡部先生が解説することになったのだろう。

 というわけで、渡部先生のご自宅に月に一回、うかがうのが仕事になった。西荻窪のルノアールでKさんと待ち合わせて、青梅街道の関町というところにあった先生のお宅にうかがう。本がうずたかく積まれている先生の書斎で、Kさんの取材を横でおとなしく拝聴するのだが、まるで興味が持てない。

 何回か行くうちにさすがの私も「これは弱った」と思った。まったく興味の持てない『論語』の話をどうやったら本にできるのだろう。というか、「そもそも渡部昇一先生って誰?」と思っているようでは手も足も出ない。

 そこで高校時代からの友人で、集英社に勤めていた野村武士君に電話をした。野村君はたくさん本を読んでいるし、当時は「サム・アップ」という「ビッグ・トゥモロウ」のライバル誌みたいなのを作っていた。だから彼に聞けばきっとアドバイスをくれると思った。こういうところだけは私は勘がいいし、友だち運がいい。

 野村君は「ねえ、渡部昇一って人の担当になったのだけど、偉いの? なんか、これを読めばいいっていうの一冊教えてよ」という私に、一瞬、息を呑んだような感じだったが、親切に「だったら中公新書の『ドイツ参謀本部』(現在の祥伝社新書)っていうのを読んだらいいよ」と教えてくれた。さっそく私はその本を買いに神保町の三省堂に行ったのだった(続く)。

(『月刊日本』2021年5月号より)

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佐藤眞(さとう・まこと)
1960年、福岡市生まれ。中学・高校は鹿児島ラ・サール学園に通う。東京大学文学部国語学科を卒業後、祥伝社に入社。その後、クレスト社編集長、集英社インターナショナル出版部長などを歴任。現在はフリーランス編集者・作家として活動中。趣味・箏曲演奏(生田流正派)。近著に『薩摩という「ならず者」がいた。』(K&Kプレス)。現代ビジネスに「薩摩・西郷隆盛が元凶…? 新一万円札の顔、渋沢栄一を悩ませた『ニセ札問題』」を執筆。

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