この世界の全体像
何となく、この世界の大ワクというか、構造が見えてきた。
もちろん、これはあくまでも私の考えであって、真実かどうかは定かではない。
でもせっかくなので今日はちょっと、それを説明してみたいと思う。
何度もここに書いてきたけど。
同じ場所にいて同じ世界を見ているつもりでも、人はみな、自分だけの世界を見ている。
同じタイミングで、同じ方向を向いていたとしても、見ているものはまるで違ったりする。
どうして?
端的に言えば、いまも本当の私たちは“無”(あるいは“無限”でもいい)の中にいて、肉体を持った“自分”というキャラクターを含む“現実”(映画やゲームに例えられることが多い)をつくり出し続けているから。
分るかな?
つまり、私がつくっている世界は私にしか見えず、隣の人がつくっている世界は隣の人にしか見えない。
いちばん大ざっぱに言えば、そういうことだ。
ところが実際は、そう単純には行かなかったりする。
なぜなら、私の世界に登場している隣の人の現実が、私の現実に影響を与えているからだ。
そして私の現実も、隣の人の現実に影響を与えている。
そうやって、現実を共有している人たちと互いに影響を与え合いながら、私たちは自分だけの世界に生きている。
…はずなんだけど。
考えてみてほしい、もしも私たちがいっしょにいてはじめて、互いに影響を及ぼし合えるのだとしたら。
いっしょにいないときには影響を受けないのだから、現象的に見れば、その人は存在しないのといっしょのはず、なのだけれど。
ところが実際は、私のいない場所でその人が取った行動が、私の現実に影響を及ぼすこともある。
なぜか?
活動範囲が広くなり、身を置くシーンが複数に及ぶようになったことで…。
人が、「自分のいない場所が存在する」という概念を持ったからだ。
すなわち大前提として「私が見ているのと同じような現実が、私のいない場所でも起こっている」と、認識するようになったからだ。
かくして私の現実は、私のいない場所で起きている現実とも影響を及ぼし合うこととなった。
ところが、それだけではすまない。
私たちはさらに、近しい人たちの活動範囲を超え、その外側の世界をも構築してゆく。
どういうことか、分るだろうか?
「出会ったことのない人たちが、私が体験しているのと同じような現実を、私が行ったことのない場所で体験している」という概念を、世界の前提として受け入れるようになったということだ。
ここに至って私の現実は、行ったことのない場所にいる、会ったこともない誰かの現実とも、影響を及ぼし合うこととなった。
いまや概念としての“世界”は、どんどん外側へ外側へと膨張し、“宇宙”や”宇宙人”にまで及んでいる。
そしてたまたま、この“宇宙”という概念が、本当の私たちがいる“無”(あるいは“無限”)とイメージ的にかぶる部分が多く。
いつの間にか、混同されるようになったのではないかと思う。
これが、私の至った、この世界の全体像だ。
もちろん、信じるか信じないかは、あなた次第です。
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