見出し画像

これまでのイタい自分

かつての私は「人から受け入れられない」という自分像をいだいたまま、それでもなんとか人から受け入れられたいと渇望しつつ、自分の外側ばかりに目を向けていました。

そんな私の目には私以外の誰もが、数多くの友だちと良好な関係が保て、家族とも支え合いながら楽しい日常を送れているものと映っていて。

それとは程遠い日常を送らざるを得ない自分を劣った人間と決め付け、常にダメ出しをし続けてきました。

この自分像はなぜか私にとって絶対的なもので、自分の外側で起きるものごとはすべてこれを補完するものとなるよう、ムリヤリ曲解してきました。

明らかに自分像に反する出来事が起きたとしても、たとえば人からほめられたり認められたとしても、やはり私はそれを捻じ曲げ「どうせ何かウラがあるに違いない」といった受け止めをしてきました。

必死で目の前の事実を否定し、自分像を守り抜いてきたわけです。

そんな私の頭の中では常に、様々な思考が渦巻いていました。

中にはもちろん役に立つ思考もありましたが、ほとんどは意味もなく、自分を痛めつけるものばかりでした。

また、自分がしたことに対する人の反応を予想し、それにどう対処したらいいかなど、いらぬ予行演習もしていました。

いま思い返すとそれらすべて、自分像を守るためだった気がします。

「私は人から受け入れられない」

この、最初の思い込みを死守するため、これまで私は生きてきたと言っても過言じゃないと思います。

我ながら「どうしてそんなことを?」と思うけれど、実際にそうだったのだから、しょうがありません。

それだけ人間の脳というのは自分でつくり出した自分像を持ち続けることありきで、ものごとを解釈してしまうものなのでしょう。

そしていちばんの厄介なのは、本人が自分から抜け出そうとしない限りは、そのバイアスからは抜け出すことはできないことです。

自分像の中身こそ、人によって様々だと思いますが。

多くがものごころがつくかつかないかの、幼い子供だったころに付いたこころの傷が生み出した自分像に、支配された人生を送ってしまう__。

でもその一方で私たち、誰もがそこから抜け出す自由も、いつだって持ってるんですよね。

私もまだ道半ばなので、偉そうなことは言えませんが、それでもおかげさまで自分自身のとらえ方がだいぶ変わってきました。

先が読めないいまの時代は特に「どうにかなるっしょ」と、ある意味のんきに日常を送るためには、メンタルケアがとぉーっても大事だと思います。

どんなときもどんな場面であろうと、自分を責めたって、いいことなんてひとつもないんですよ。

ダメ出しをしようと、自分の一挙一投足を見張る必要も、まったくないんです。

それをしちゃってるなぁって自覚がある人はぜひ、外側ではなく、自分の内側に目を向けてください。

きっと、傷付いたままの子供のころの自分を、見付けられると思います。

あきらめさえしなければ、きっと…。

ホームページをつくったので、ぜひ、見てみてください。

naotadano.com

感想など、コメントもいただけると、励みになります。

では、Good Luck!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?