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映画の観客として生きる

昨日「映画の登場人物として生きる」とは、どういうことなのかを書いた。

今日は、そこからステップを1段上って、スクリーンの中から抜け出し…。

快適なシアターで、人生という映画を見ている「観客として生きる」とは、どういうことかを考えてみたいと思う。

目の前で起きている“現実”を真実だと信じ込み、概念に過ぎない“世界”にあふれているとされる“問題”に心底おびえて生きている「登場人物」とは異なり。

「観客」は、人生がさまざまな概念や常識などの、“設定”に則って動いていることを知っている。

もちろん自分自身のこころが、“現実”なるものをつくり上げていることもよく知っているので。

自分たちがつくり出した“現実”に踊らされることなく、距離をおいて、俯瞰することができる。

スクリーンの中が、どんなに危険にあふれていようと。

いままさに、生命を脅かされるような危機に直面していようとも。

本当の自分は、どんな危険も存在しない、極めて安全な空間に身を置いていることを自覚できているから。

安心して、見ていられる。

そして…。

スクリーンの中で逆境に泣かされている自分の姿を冷静に見て、この出来事から何が学べるのかを、絶えず考えている。

成長のために必要な気付きが、どこかに隠されているはずだと、集中している。

でも決して、必死になっているわけではない。

逆に心底、楽しんでいる。

謎解きをするみたいに、知的興奮をかきたてられつつ。

危険を乗り越えようとしている自分を、陰ながら励ましている。

この状況が味わいたくて、私たちはわざわざ記憶を消去して、この三次元に生まれてきたわけだ。

__最後に、「登場人物」から「観客」への視点の移動について触れておこう。

この視点移動にはどうやら、連続性はないようだ。

何らかの閾値を越えると、次の瞬間にはもう、切り替わっている。

そしてもちろん、ダウングレードも存在する。

とある拍子に思考につかまれば、簡単にスクリーンの中へと舞い戻ってしまう。

私はいま、まさにその行ったり来たりを、くり返しているところだ。

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