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“人の目” と ”社会の目”

これまで私、常に自分を責める理由をサーチしてきたのだけれど。

それをしなくなって、さらに頭の中の思考が鳴りをひそめて。

すごくすごく、ラクになった。

人に対しても、自分を投影しなくなって。

ようやく「へぇ、そんなふうに考えるんだぁ」って、自分との違いが面白く思えるようになってきた。

これ、頭の中では理解できても、なかなか自分のとらえ方に反映することができなかったんだけど。

本当にようやく、できるようになった。

これによって、人と関わるときの自由度もぐっと上ったし、周りに人がいる状態でも警戒しなくてよくなって。

人の目が気にならなくなったから、自分のしたいように行動できるし。

逆に、人がしていることに気を取られることも、ほとんどなくなった。

つまり、自分の外側で起きているものごとに、ほぼ影響を受けることがなくなった。

はず、なんだけど…。

日常レベルでは、よくよく体感できても。

それをそのまま、やりたいことに適用することには、やっぱりまだ抵抗がある。

つまり、まだまだ途上、ってことよねぇ。

気にならなくなったはずの“人の目”も、身近にいる人たちだけに限ったもので。

その外側にいる“マス”としての、あるいは“受け手”としての人々には、応用できてない。

その人たちって私の世界の外側にいる人たちだから、ある意味“概念”でしかないのよね。

私を評価し、裁定する存在。

私のイメージの中に限って言えば、“社会”とも言い換えられるかもしれない。

幸か不幸か私いま、この“社会”から離れた場所にいて。

しばらく影響されていないから、なおさら、触れたくない思いがあるんだなぁ。

でも、それじゃダメなんだよね、明らかに。

まぁ、恐さを感じつつも、行動しなくちゃいけないタイミングに来てるんだろうなぁ…。

いまだチキンな私だけど、そろそろ“恐さ”ともお友だちにならないと、ね。

どうせ死ぬまで、付き合っていかなきゃならないんだから。

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