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帰国子女の奮闘~小学校編入~②

その後の学校生活


暴力の多いクラスに合流したNicoのその後。
毎日どつかれたり、たたかれたり、罵声を浴びせられたりの日常。Nicoと話をして、あまりひどいなら先生に言おうと伝えたところ、言ったらもっとひどくなるから、言わないでくれと言うのです。

彼の話では、先生はこれらの日常を何とも思っていないし、仮に注意してくれたところで、何も変わらない、余計ひどくなるのが関の山とのこと。
たとえ、自分の名前を出さずに先生が注意をしても、やってるやつらも馬鹿じゃない、Nicoがいったことぐらい、簡単に予測がつく、との事でした。

私としては、少し状況を伝える方が良いように思うところもあるのですが、正直先生はあまりあてにならなさそうと思っているので、学校にはいわない事にしました。

Nicoも譲らないし自己主張が強いので、日本のクラスメートからすればイライラする事も多いでしょう。ですから揉めたり嫌われたりするのは否めません。それでも、習慣の違うことをついポロっと口にすると、すぐさま「きったね〜!」などの蔑みの言葉を投げつけてくるときいて、正直驚きました。全く違う文化への興味や関心がないようで、とても残念に思いました。

子供達のやり方の違い


また、Nicoの言っていた事の中で、ドイツと日本では違うと思った事がありました。

ドイツでは子供たち同士が喧嘩になった場合、周りの子は止めるか、無関心かのどちらかになります。ところが日本の学校では、Nicoが誰かに何かを言われ、言い返したりして揉め始めるとすぐさまそれを聞きつけて、その喧嘩には関係のなかった子が参戦してきて複数対1人の構図ができるのだそう。おそらく日頃からNicoをよく思っていない子供達が、これ幸いとばかりに蹴ったり叩いたりが始まるというわけなんです。

「見た事ないくらい卑怯な奴ら。複数じゃなきゃ何も出来ない。」と吐き捨てるように言うNico。

「Nico、それ、イジメなんじゃないの?イジメにあってるの?」
と私が聞くと、少し考えてから、
「……うん、そうだねイジメだと思うよ。」
とNicoが答えました。

あまりにもあっさりと自分がいじめられていると告白したので、ちょっとびっくりして、
「あっさり認めるね。イジメにあってる子ってつらい状況を恥ずかしくて親に言えないという話を聞いたことがあるんだけど。」というと、
「そうなの?なんで?僕は恥ずかしくもなんともない。それだし、別にうざいし嫌だけど、自分が悪いからイジメにあってると思ってない。」

・・・まったく心を折られていない・・・・

イジメは恥なのか?

なぜイジメられる側が恥ずかしいという気持ちを持つのでしょうか?いじめに合う事は「恥」なのでしょうか? Nicoの場合、理由があるとするなら、「違う」から、「従わない」から、という事で、それは恥でもなんでもありません。
しかし、いじめをする側は気に食わないNicoに言いがかりをつけてくるのだそうです。例えば「臭い」「汚い」など。優しい子であればあるほど、自分は臭いのかもしれないと思って心配になってしまうのではないでしょうか。

Nicoはそういうことを言われて傷つかないかどうかを聞いてみました。
「僕は自分が臭くないことを知っているから、全然傷つかない。毎日風呂に入っているから臭いわけがない。言ってろって感じ。ドイツではマジに臭いやつがいた。彼らは毎日風呂に入る習慣がないから。」といっていました。

「嘘」を巧みに使って、相手を傷つけよう、弱らせようとする行為。子供たちは大人たちからこれらの方法を学んでいるのでしょうか?

今のところ、これらの攻撃はNicoの心には全く影響がありません。とはいえ、このような状況も長くなればなるほど、ダメージが出てくるのかもしれません。屈辱的に屈服させられるような状況になるのかもしれません。心のストレスはいつか、体のストレスとなって出てくるのかもしれません。

違うという事


彼らにしてみれば自分たちのテリトリーである「クラス」に、突然やってきた異端児のせいで、秩序や和が乱されると感じているのかもしれません。自分たちのやり方をしろとNicoに言っても、Nicoは納得のいかないことを絶対に迎合しません。

ドイツの学校では、みんなが違うことが当たり前でした。人種や国籍が様々なので、考え方や文化が全員違う事が当たり前、合う事の方が珍しい社会です。だから、やりたい事が違ったり、意見が違ったりしても、無理に合わせたりせず、それを受け入れてそれぞれが楽しめる事をやっていく事が当たり前でした。

一方、日本では一見、みんなの意見が一致しているかのように感じます。ですが、本当にみんな同じ意見なのでしょうか?

そんなことはあり得ないと私は思います。

違う意見があっても、力の強い子や、発言力のある子の意見が通り、その他の子の意見はねじ伏せられてしまう。そしてねじ伏せられる事に慣れている日本の子供たちは、戦うことを拒否して意思表示をしない事が当たり前になるのではないでしょうか?

意見を言わないこと。

それが彼らにとっての楽な道なこともあるでしょうし、先生も議論に時間を割くことが迷惑だと思っていることも明らかです。
「反論」をすることは時間を使う行為なので、日本の小学校では子供達に議論のやり方や意見を言う方法を教えません。つまり、先生は間接的にジャイアニズムに加担する大人という位置付けであると私は思っています。

様々な性質のこども達がそれぞれの良さを発揮するには、まずは大人がそれぞれの良さを認めてあげないといけません。価値基準は星の数ほどあるのです。日本の全体主義は、価値基準を少なくすることで子供達のそれぞれの個性を潰し、自由な考えをなくし、またそれを表現する意欲をなくしているのです。子供達の心より効率を優先している教育です。

クラスメートの1人がNicoにしたアドバイスは、
「お前のほうが下なのに、なぜ反論するのか?いちいち反論するからいけないんだ。」
でした。 反論しないでいること。それが日本での生き方だと教えてくれたそうです。

Nicoは全く納得しませんでした。意見を言わないでいる事は、勝手にされてしまっても文句は言えない、言葉というものが自らの存在意義を示す重要なツールである生活に慣れてきた彼は「誰が下って決めたんだ?そもそも下ってなんだ?僕の人生に口出しするな」と言って帰ってきました。

小学生のうちから考え方に大きな隔たりがあるのだと感じる体験でした。




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