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ヴェネツィア・ビエンナーレ2024 感想

総評のようなものです。国別パビリオンについては過去記事を参照してください(限定向け)

感想

①現代アートの未来や最先端が見えた

まず第一の感想として、非常に面白くかつ唸らされた展示が幾つかありました。前回の2022年のビエンナーレよりも視覚的に洗練されているのはもちろんですが、映像に音響にとメディアミックスされたインスタレーションは、この分野の進化(真価)を鑑賞者に示すものです。

英国館

直近で映像系の現代アートへの不満のようなものを吐露したことがありましたが、それらは
・鑑賞者に寄り添わず、独りよがりで長い
・映像としての文法がなく、観ていて退屈
の二点にまとめられます。それを克服するような展示が多く、映像系がよく分からないのではなく、映像系作品の個々の質の問題だと分かりました。

映像も、オブジェも、文章も、視覚効果や演出、BGMの使い方といったところまで練り上げられています。特に備忘録①でまとめられている展示は見事としか言えないものでした。やはり世界最高峰の舞台なのかなと思います。

②祝祭性への転換 視覚的洗練への回帰

元からドイツのドクメンタなどに比べれば、政治色や社会批判的なアートの色は薄いと言われていますが、今回は前回よりもさらに祝祭感が増えていました。第三世界(グローバル・サウス?)の作家を大々的に紹介ということで、色彩や表現が賑やかだというだけではありません。

メイン会場

危機や問題を直接的に訴えるアートが、ウクライナやガザ、スーダンやミャンマーといった戦争・虐殺、深刻な移民問題といった「本物」を前に狼狽えている証拠、あるいはその裏返しでしょうか。告発や現実を見せつけるというひとつのアートの機能が変質しつつあるように感じました。

この回帰が決定的になれば、コンセプトや批判対象によって評価されていたものも、それだけでは厳しくなりそうです。視覚的な洗練やインパクトが問われる、大きなうねりの前触れを見たように思います。

③近代日本美術の悩ましい立ち位置

メイン会場では20世紀に被植民地だった地域の作家の絵画がずらりと展示されていましたが、それで仮に「復権」というムードを起こそうというのなら、それには失敗していたと思います。ただ大量に並べて紹介した気になっているのはいかがなものかという感じです。

ベトナム最初の洋画家ルー・ホー
評価未確定の第三世界の絵画をというところに、美術史的評価の定まった感のあるフリーダ・カーロとリベラが並ぶ違和感。ここだけ警備員がいたので浮く

おそらくは観客の多くを占める欧州のインテリ美術愛好家たちに対して、「あなたたちの文化圏以外にもファインアーツの画家がいたんだよ」という極めて初歩的な訴えを起こしているのかもしれません。本当に美術に関して彼らは自分たちの文化圏内くらいしか興味がないので。

それを思うとこの物量展示の意義はあったのかなと思いますが、テーマ的に日本の近代絵画も展示されるべきでした。ベトナムや中国の近代画家の作品はあったので、なおさらです。おそらくキュレーターは日本は北斎などの有名芸術家がおり、政治的には帝国であったためヨーロッパ側に組み込まれているように感じました。キュレーターはブラジル人であり、南半球からの視点ではそうなるのでしょう。

とはいえ近代日本の美術改革と西洋化の方針は、普通に他国同様の非対称的な権力構造の下に起きたことですし、日本画が耐久面からして難しいとはいえ、本来的には日本画を、次に近代洋画があってもおかしくないどころか、妥当だったように思います。

「自分自身を植民地化した」と評される特異性のせいでしょうが、なぜここにないのだろうと、日本で、東京美術学校の後裔で学んだ人間として素朴に思ってしまいました。近代日本美術という存在を巨視的に眺めると、その居心地の悪さをつきつけられるものです。

④凡庸な作品や展示も多い

アートの未来や最先端を感じると称賛してきましたが、これはきちんと選別されているのだろうかと感じる水準の低い作品も少なからずありました。それらをまとめて挙げることはしませんが、出来不出来以上の、国力的な差をはっきりと感じるものです。

結局欧州先進国、ジャルディーノ会場のいい場所を独占しているような国々は安定のクオリティで、感嘆するような作品も多かったです。そうではない国々の美術の復権をという機運のなかでも、明確な差を見せつけられるとうーんとなってしまいます。国別展示なので嫌でもそう考えてしまうのです。

フランス館

また多様性という要素ひとつとっても、多民族国家のアメリカやオーストラリア等はさておき、もともと帝国だった英仏はいくらでも「多様なルーツのアーティスト」をピックアップできるので正直チートです。フランスはカリブ海地域のフランス領出身ですし、結局海外植民地が多かったことが今の条件に有利につながっているのです。

どこでもイタリア人
絵画の展示方法としては面白く参考になる

アルセナーレ会場の「どこでもイタリア人」という特集はサンパウロ美術館的な演出で、現代の世界中に散らばったイタリア系画家の作品を紹介していましたが、そこまでうまいとも、考えられているとも思わない凡庸なものでした。藝大生の方がいい絵を描くよなと率直に思ってしまったほどです。

技巧的で理知的なものを「白人エリート男性性」として退けるなら、上のような展示は理解できますが、それが全体に作用すると現代アートそのものが魅力を失いかねないのではと思うくらいです。

この傾向は「やっぱりヨーロッパが優れてましたよね」ということを納得させるための、深淵な計画なのではと薄々感じますし、そのバックラッシュを予感します。

⑤どこでも外国人とは

全体のテーマとして「Ovunque Stranieri」、直訳すればどこでも外国人、どこにでもいる外国人ということですが、「いろんな人が共に生きているのだよ」という月並みなことが言いたいのかどうかということです。

出身の違うアーティストを共に大量に並べたところで、それは達成できるのか不透明なばかりか、「他者をうけいれよう」という2017年のビエンナーレで見た考えはもう今のヨーロッパにはない(移民排斥系政党が与党だったり、僅差の第二党だったりするような地域にすでになっている)どころか、反感を買いかねません。

その現状を超えてそれでもなお、という強さは展示からも作品からもあまり感じられませんでした。作品の主題としては扱いつつも、②で述べたような視覚的な洗練や、抽象的な繋がり、観念性の変換といった方向に進んでおり、2010年代の直接的な政治的アートの終わりを感じるものでした。

デンマーク館

無論ビエンナーレに来る層は、移民と直接相対する層ではなく、富裕層の免罪符的にこれまでのアートを楽しんでいたこともあり、猫も杓子もその構造的な矛盾を批判してきましたが、とうとうアート側の方が耐え切れなくなりそうですらあります。これからは内的なもの、個人的なものへの探求にベクトルがもしかしたら揺らいでいるのかもしれません。

まとめ

ユーロに対しても円安の今、皆行ってくださいとは言えなくなってしまいましたが、それでも映像やインスタレーションを作品に使いたいと考えている人や学生は、大いに行く価値があるものとなっています。

絵描きなら悩ましいところです。今回は例外的に絵画の展示が多く、知らない地域の絵画的伝統まで大量に見られますが、それが創作に活かせる類ではないです。さんざん言われ続けている「美術史の新たな正典の編纂」を企画してそれが滑っているような気持ちにさせられます。

アメリカ館

前回のようなキーファーやカプーアなどの話題性抜群の大物展示はありませんし、観光として訪れるならやや印象が弱いかもしれません。外部のピエール・ユイグ展は必見だと思いますが、秋に韓国・ソウルにも巡回します(リウム美術館)。なによりサンマルコ大聖堂やドゥカーレ宮殿は改修中です。

諸々批判的なことも書いてきましたが、冒頭のようにアートの未来や最先端を感じさせるワクワクした感情は、このビエンナーレ特有のものだと思います。ぼーっと歩いているだけでも必ず発見や思索の源に巡り合えるはずです。可能ならぜひ行ってみてください。

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