【占守島の戦い】
北海道から北東に向かって連なっている〈千島列島〉の最北端、カムチャッカ半島の目と鼻の先に位置するのが「占守島」である。
「占守島」は、アメリカ軍の北からの侵攻を防ぐ為に、日本軍が護りを固めていた島だ。
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1945年8月15日・・・
「・・耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」
ラジオに天皇陛下の〈玉音放送〉が流れる。〈ポツダム宣言〉を受諾して日本が降伏したのである。
〈大本営〉からの武装解除の命を受けて、「占守島」の部隊も撤退の準備を始めようとしていた。
ところが、占守島方面の司令官:樋口季一郎は、戦争終結後の「ソ連」の侵攻を予想しており、全く楽観視してはいなかったのである。
そこで樋口は、日本本土からの「8月18日の16時までに武装解除せよ。それまでにもし何者かが攻めてきたら応戦せよ」という通達を拡大解釈して18日の16時まで戦闘態勢を緩めないように指示を出したのである。
果たして、〈日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)〉を一方的に破棄した〈ソ連軍〉が、8月18日午前2時頃、〈占守島〉の竹田浜に上陸してきたのである。
激戦区の南方と違って武器弾薬を消耗していなかった〈日本軍〉は、〈ソ連軍〉の上陸と同時に砲撃を集中するが、それでもなんとか砲撃を掻い潜ったソ連兵は日本兵と壮絶な戦闘を繰り広げることになる。
この戦闘で大活躍したのが、戦車部隊の神様、第91師団第11連隊隊長:池田末男大佐である。彼等は「士魂部隊」と呼ばれていた。
池田は隊員を前に訓示を述べた。
「我々は大詔を奉り家郷に帰る日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかない。そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、或いは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前にでよ。白虎隊たらんとする者は手を挙げよ」
すると隊員達全員が挙手したのである。
そして、池田は最後にこう言った。
「池田連隊は、これより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る」
池田は頭に日の丸の鉢巻きを巻き、軍服を脱いだシャツ姿で戦車の砲台に跨がって出撃した。
池田は戦死したが、玉砕覚悟で戦った「士魂部隊」は〈ソ連軍〉を撃破していった。日本側の死傷者400人余りに対して、ソ連側のそれは3.000人以上に登った。
結局、〈日本軍〉と〈ソ連軍〉が正式に停戦交渉を締結したのが8月21日であったが、このたった4日間が日本の運命を大きく変えたのである。
停戦の後、〈ソ連軍〉は千島列島をどんどん南下していって北海道の手前、いわゆる北方四島までを占領してしまったのだが、4日の猶予が無ければ、〈ソ連〉は北海道まで侵攻していたであろうことは想像に難くないのである。
以下のURLは〈占守島の戦い〉の動画のURLである。
(YouTube:〈大人の教養TVチャンネル〉〈祖国日本チャンネル〉参考引用)
https://youtu.be/9S7Mg2HbODA?si=MvZkacraJ3yFXwwt