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【戊辰戦争の闇】

薩長による倒幕運動が展開される最中、会津藩や桑名藩などを含んだ旧幕府がたが京都へなだれ込もうとしたことから〈鳥羽・伏見の戦い〉が始まった。

ところが、朝廷が徳川慶喜よしのぶを朝敵とみなし、錦の御旗を掲げて「大義は我らにあり」と示したことで、旧幕府軍の士気がガタ落ちしてしまう。

その結果、旧幕府軍1万5000、新政府軍5000という圧倒的な戦力差があったにも拘わらず、旧幕府軍の敗北で戦いは終わる。

〈鳥羽・伏見の戦い〉で敗れた旧幕府軍は江戸へと逃れたが、旧幕臣の勝海舟かつかいしゅうと新政府軍の西郷隆盛さいごうたかもりの働きで、江戸城は戦いではなく話し合いによる〈江戸城無血開城〉が成され、江戸城が新政府へと引き渡される。

そうして、1867年11月、第15代将軍 徳川慶喜によって、政権を朝廷に返上する〈大政奉還〉が行われたが、これは、朝廷側から倒幕の勅令ちょくれい(天皇の命令)が出る前に先手を打ったとも、内乱を避けるためだったとも言われている。

それから2ヶ月後の1868年1月3日、大久保利通おおくぼとしみち西郷隆盛さいごうたかもり岩倉具視いわくらともみらが慶喜抜きの新しい政治体制を確立するためにクーデターを起こし、「王政復古の大号令」を発して新体制の樹立を決定する。

その16日後の1868年1月19日、薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組によって焼き討ちにされる。これに対して薩摩藩が報復。薩摩藩の浪士に江戸市中取締の庄内藩新徴組の屯所を襲わせ、使用人1人を殺害。

屯所を襲撃された旧幕府側は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、112人の浪士が捕縛。この騒乱の影響が拡大し、その後、旧幕府軍と新政府軍が衝突する〈戊辰ぼしん戦争〉へと繋がっていく。

一方、東北諸藩は会津藩と庄内藩の「朝敵」扱いを許してもらえるように新政府へ嘆願を行ったが、拒絶されたため「奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめい」として新政府に対応する軍事同盟を結成。〈東北戦争〉が勃発。

続いて会津藩の処遇をめぐり、会津地方を主戦場に新政府軍と奥羽越列藩同盟の戦いが行われた。〈会津戦争〉。

しかし不利な状況の会津藩は「白河口の戦い」や「二本松の戦い」などで敗れ、城下町の火災を若松城の落城と間違えた白虎隊が飯盛山で集団自決するという悲劇まで起きる。

奥羽越列藩同盟軍や榎本武揚えのもとたけあき土方ひじかた歳三などは北海道へ出航し、朝廷の下での北海道の支配を求めたが、新政府は認めず戦いとなる。〈函館戦争〉。

そして青森に戦力を置いて上陸し、戦いの中で土方歳三は戦死し、旧幕府軍が鎮圧されたのを最後に〈戊辰戦争〉は終結した。

江戸城の無血開城で大政奉還されたにも拘わらず、戊辰戦争が起こった。果たして、新政府に政権が委譲された後に戦争が必要だったのであろうか・・

結果、新政府軍は旧幕府の主要な残党を、北海道の五稜郭まで追い詰めて皆殺しにしたのである。

そもそも、敵の大将が降参したらそれでいくさが終るのが日本の精神文化というものだ。ところが新政府軍のやったことと言えば、打って変わって皆殺し。これは西洋の遣り口そのものなのだ。

更には、坂本龍馬を始め、維新を成し遂げた薩長の立役者たち、西郷隆盛大久保利通木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩小松帯刀長州藩大村益次郎前原一誠広沢真臣肥前藩江藤新平肥後藩横井小楠公家岩倉具視らは、第1次伊藤博文内閣に加わるとこなく、十人のうち七人までが暗殺、刑死、敗北自決などの異常死を遂げている。

結局、第1次伊藤内閣の閣僚に名を連ねたのが、井上馨、山縣有朋、松方正義、大隈重信などの顔ぶれであった。

「宣教師工作」や「アヘン工作」でも陥落ちなかった〈日本〉を、〈函館戦争〉の終結によって、イギリスがようやく乗っ取ったということなのかもしれない。

・・・戊辰戦争は起こされたのだ。

「明治維新」とは、イギリスが糸を引いて日本に内戦を起こさせた侵略工作であり、新政府を裏で操っていたのがイギリスなのである。

因みに、会津若松城は幕末に京都守護職を務めた会津藩藩主の松平容保まつだいらかたもりが住んでいたお城で、「鶴ヶ城」とも呼ばれていたが、戊辰戦争では、新政府軍の最新鋭武器である、〈アームストロング砲〉や〈新型銃〉で猛攻を受けている。新兵器を供給したのは誰なのか・・・

そうして「明治新政府」になった「大日本帝國」は〈日清戦争〉を皮切りにイギリスの宿敵〈ロシア〉と戦い、最後に〈大東亜戦争〉で敗戦するまでの70年間、延々と戦争の道を歩むことになるのである。

自分たちの手を汚さずに、実に巧妙に対立と紛争を作っては侵略していくというグローバリストの〈陰謀工作〉は、今も尚、世界中の至る所で繰り広げられている。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年 [2]〉- 明治2年1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩長州藩土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍奥羽越列藩同盟蝦夷共和国幕府陸軍幕府海軍)が戦った日本の近代史最大の内戦[3]。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支戊辰であることからきている。(Wikipediaより引用)

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