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中国のベトナム語 -京語を探る 前日譚-

いきなりだが、私は中国の本屋がとても好きだ。私の専門である言語学は日本の書店ではやたらと影が薄く、下手をすると語学コーナーの片隅に押しやられている。でも中国では言語学の棚に気合が入っている本屋が多く、本のラインナップを一通りチェックするだけで2〜3時間くらいかかることも珍しくない。兎にも角にも中国の本屋は言語学に優しい。

言語学の棚を見て一息ついたら、今度は隣の「少数民族言語」の棚に移る。日本ではまず見ないコーナーだが中国だと全然珍しくなく、多民族国家だけあって背表紙を眺めているだけでとても楽しい。モンゴル語、ウイグル語、チベット語などは定番だが、南に行くとチワン語や彝語、東北に行くと満州語、朝鮮語の本が増えるなど地域性もある。本の種類も辞典や教科書だけではなく、少数民族言語で書かれた仏典や歴史書などもあって「自分の知らないこともまだまだ沢山あるのだな」と気が引き締まる。

ベトナム語を始めてからは、ある少数民族言語にずっと注目していた。その名は京語。中国の少数民族の中ではかなりマイナーで、私と同業で中国語方言を研究している妻にも「北京語?」と聞き返されてしまった。京語とは広西チワン族自治区に住んでいるキン(京)族の言語なのだが、キン族はベトナムで最も多数の人口を占める民族でもあり彼らの話す言語はあの「ベトナム語」だ。つまり、京語とは中国領内で話されるベトナム語である。

地図を見てみよう。中国とベトナムは地続きでつながっていて、中国側は広西自治区と雲南省に接している。民族の分布境界と国境が完全に一致しないのは世界の常識だけど、キン(京)族も例に漏れずベトナムの国境を越えて中国でも暮らしている。彼らの言語が京語である。

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中国語の研究から始めてベトナム語にも最近興味を広げてきた身としては「京語とベトナム語はどれくらい似ているのか?」という疑問は真っ先に気になるものだ。ベトナム語の研究なら世界中で盛んに行われているし、ベトナム国内の方言についても分かっていることは多い。でも、国境を越えた先の京族はどんな言葉を話すのだろう?

直接現地にフィールドワークに行ったり、広西自治区の中心都市である南寧の大きな本屋や当地の民族研究を扱う広西民族大学に行けば、京族に関する色々な情報が入手できるだろう。こんな感じで日々好奇心ばかりは湧いてくるのだけど、コロナ禍が続く限り中国への気軽な渡航は夢のまた夢だ。

救世主は東方書店

ここで救世主が現れる。そう、日本には東方書店がある(もちろん他の中国語書店もある)。東方書店は神保町にある中国語書籍の専門書店なのだが、私は公私ともにヘビーユーザーで最近は週一回は荷物が届く(取り寄せ中は2件)。今は東京に住んでないのでネット注文ばかりだが、以前同じ本を2回注文したら「この本、〇〇月××日にもう買ってますよ」とわざわざメールを送って知らせてくれるくらい親身だ(...1回目に頼んだ本はお茶をこぼしてフニャフニャになってしまったんです、すみません)。ツイートアカウントもあり、たまにジャケ買いならぬツイ買いもしてる。

東方書店は年末にウインターセール(既に終了)をやってくれるのだが、その都度紙のカタログを毎回送ってくれる。このカタログ、各分野の本が合わせて数千冊は載っているのでタイトルを眺めているだけで楽しい。中国の書店で背表紙をチェックしている時を思い出す。

私が特にチェックする分野は中国語研究、中国語方言、少数民族言語の3つだが、少数民族言語の本はさすがに数は多くない。「今回はハズレか...」と思った瞬間、一冊の書名に釘付けになった。

『京語 366句会話句』...キタコレ!

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買うべき本を見つけたら、とにかくスピード勝負。先に誰かに買われてしまったら悔やんでも悔やみ切れないので即注文。注文を済ませたら「在庫切れ」に変わってしまったのでどうやら最後の一冊のようだ。「誰かに買われるところだった、危ない危ない...」と肩をなで下ろしたが、日本でこんなマイナーな本に食いつく人は他にいないと思うので、私が買わなければ多分在庫がずっと残っていたかもしれない。となると、肩をなで下ろしたのはもしかしたら東方書店の方だったのかも...

ということで、本は数日後には到着。すぐに内容を全てチェックしたが確かにベトナム語だ。例えば、下の2つの例文は"tẻ"「若い」の子音がベトナム語 "trẻ"と少し違うけれども、それ以外はまんまベトナム語だ。

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「読める!読めるぞ!!」と某映画作品の悪役みたいなセリフを吐きながら、あっという間に読了。今年は1月からこんなに良い本に巡り合えたので、幸運な一年かもしれない(前厄)

ということで、今回の記事では東方書店に感謝しながら「京語の前日譚」を紹介した。次回からは京語とベトナム語を実際に比較しながらその特徴を見ていこう。