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【短篇小説千本ノック11】黒歴史を抹消せよ——ジョヴァンニ・パピーニ / 河島英昭訳「泉水のなかの二つの顔」

 いったいに、私は多感な幼少年期に、水木しげるの漫画や、円谷プロ往年の特撮ドラマ『ウルトラQ』(父親が買ってきたVHSのテープが擦り切れるほど観た)の薫陶を受けたおかげで、怪奇・幻想的な物語が大好きである。そのため、この【短篇小説千本ノック】で取り上げる作品も、多少なりとも幻想小説に偏ったチョイスになることと思う(現にもうそうなっている)。
 今回扱うイタリアの作家ジョヴァンニ・パピーニ(1881-1956)もその例に漏れず、優れた幻想小説の書き手である。日本でパピーニをまとめて読もうとすれば、ボルヘス編纂のアンソロジー『バベルの図書館』中の一巻『逃げてゆく鏡』を紐解くほかないが、その意味から本書は、『バベルの図書館』シリーズで最も「買い」な一冊と言えるだろう。作品の質は、総じて高い。こんな【短篇小説千本ノック】なんか読んでいないで、まずは書店へ急げッ。

 先述したとおり、日本で読めるパピーニの作はそう多くない。『バベルの図書館』の月報には訳者・河島英昭によるパピーニの小伝「見出された物語」が載っており、これを読めば彼の生涯についてだいたいのことはわかる。なかなかどうして不可思議な生き方をした人なのだが、日本では彼の伝記はあまり知られていない。そこで、まずは簡単にパピーニの生涯を素描しておきたい。

 フィレンツェの貧しい家具職人の家に生まれたパピーニは、若いころからその文才を発揮し、1909年、未来主義を唱えたマリネッティの主張に同調したが、数年も経ずしてこれを批判、袂を分かつや、1919年にはこれまでの無神論的態度を一変し、回心を遂げる。
 また一時期、ファシズム当局やムッソリーニ自身の要請を受け、イタリア学術院・芸術院の代表的存在として、ファシズム文化の普及に加担しており、1942年にワイマールで開催されたヨーロッパ作家同盟会議では、なんと副議長に選出、講演を行ってもいる。
 その後は戦火を逃れてフランチェスコ会の修道士となり、イタリア解放後の1946年からはいくつかのペン・ネームを用いて執筆していた。また1952年前後から、視力や聴力が徐々に失われ、全身が麻痺していく奇病に冒され、痛ましい晩年を送ったという。
 『逃げてゆく鏡』に収められた短篇は、パピーニが、ジャン・ファルコのペン・ネームで世に出した、若書きの幻想短篇集『日常的悲劇作家』(1902)『盲目の案内人』(1907)を底本とする。ボルヘスが『バベルの図書館』を編纂、出版するまで、イタリアの読書界でもパピーニは忘れられた存在であったらしく、やはりボルヘスの眼力はたいしたものである。

 話は変わるが、読者諸賢は、五年前、十年前、あるいはもっと以前、いまより、もっとずっと若かった頃の自分を好きだろうか? もし彼(女)が目の前に現れたとしたら、友だちになりたいと思うだろうか?
 私に関して言えば、断じて否である。そんなのが不意に出現したとしたら、おそらくはその無知と、恥知らずなセンチメンタリズムの前に、開いた口が塞がらないにちがいない。
 なぜいきなりこんな話をするかというに、先日、高校以来の友人で、親友といえる数少ない男のひとりと小岩で酒を飲んでいて、話題がmixiのことに及んだ。もしかするといまの若い方はmixiなんてものをご存じないかもしれない。
 一応、説明しておくと、mixi(ミクシィ)とは、2004年にサービスを開始したSNSであり……と書きはじめた瞬間にすさまじい寂寥感に襲われたのでやめる。知らない方は自分で調べてください。要するに、TwitterとかFacebookとかInstagramとかが流行る前は、相当数の人がmixiをやっていたわけです。
 小便臭い路地裏の、馬鹿みたいに安いもつ焼き屋で、チューハイを飲みながらmixiの話なんかをしたせいで、saudadeにも似た甘い感傷にとらわれた私は、スマホを手に取るや、その場でmixiのログインページを開いてみた。無駄とは知りつつ、当時から使用しているメールアドレスとパスワードを入力してみた。おどろくべきことに、ログインは成功した。私自身の最後の書き込みは、2008年8月、ちょうど10年前のものであった。
 そこには、いまではまったく顧みることのない、書物、音楽、映画、思想について、借り物の文章で恥ずかしげもなく語る、21歳の私がいた。
 彼はある作家を、驚異的に拙い文章で礼賛していた。醜かった。彼はある映画を、ちょっと斜に構えた感じに皮肉っていた。おぞましかった。彼の言葉からは、過去の薄闇のなかに埋葬された思想の片鱗がうかがえた。穴があったら入りたかった。
 「私の化石」という言葉が脳裏をかすめた。私は無言のまま、mixiのアカウントを抹消した。見てはいけないものを見てしまった思いに憑かれ、鯨飲した。
 気付くと私は御茶ノ水駅に程近い橋の欄干に手をかけ、神田川の水面を呆然と眺めていた。宿酔の悪寒が全身を浸していた。いつ、どこで友人と別れたのかもわからない。電車に乗った記憶すらなかった。そこで私は、ジョヴァンニ・パピーニの短篇小説「泉水のなかの二つの顔」のことを考えていたのである。

** 廃れた庭のなかで、落葉の吹き溜りとなっている、死んだ泉水の底に、自分の顔をふたたび見出したい。そのことだけをひたすら願って、長い歳月の後に、あの小さな地方都市へ、わたしは立ち寄ったのであろうか?——街並が近づいてきたとき、それ以外の理由が、わたしには考えられなかった。(ジョヴァンニ・パピーニ「泉水のなかの二つの顔」以下太字部分は本作の引用) **

 物語は、語り手が「科学の分野での見習修道士を勤めていたころ」に住んでいた地方都市を再訪するところからはじまる。街中をぶらつく彼の脳裏を、かつて住んでいた家の庭園にあった、廃れた泉水の記憶が去来する。「あの泉水の胸元から、久しく水の迸り出た例はなかった。水は澱んで動かなくなり、太古の昔のような相貌をとった。落葉は一面に泉水を覆い、水の底に積もった病葉(わくらば)は遠い神話の時代の秋を物語っているかに思われた」
 若かりし頃の彼は、よくその庭園を訪れては、泉水の水面を覗きこみ、そこに映る自身の顔に見入っていた。「そして長いあいだ見つめていると、それがもはやおのれの肉体の一部として存在しているというよりは、むしろ水槽の底に永遠に嵌めこまれた、一つの影のように思われてしまうのだった」
 水面に映る顔に見入る(=魅入られる)というモチーフは、有名なナルキッソス神話に元型をたどれるだろう。言うまでもなく、ここでは若者にありがちな自己愛のかたちが描かれているが、注意すべきは、語り手が自身の鏡像について抱く「おのれの肉体の一部として存在しているというよりは(略)一つの影のように思われてしまう」という認識のありようである。ラカンによれば、いまだ彼我の境界が曖昧な幼児にあっては、鏡に映る自分や他者の像を認知することで、身体的統一感、ひいては自我の獲得に至るという(鏡像段階)。
 一方、この小説の語り手の場合、水鏡に映る顔を見つめるほどに、それが自分と同一の存在であるとは思えなくなる。自己像のゲシュタルト崩壊というべき事態に陥るわけだ。そして物語は異様な様相を呈してくる。懐かしさにとらわれ、件の泉水を訪れた語り手は、文字通り、過去の自分と再会することになるのである。
 泉水のほとりに腰かけ、水鏡を覗きこむと、「水底のわたしの顔の傍らに、もう一つ、別の顔が覗きこんでいるのに気づいた」。いつの間にか、語り手の隣にひとりの男が腰掛けている。この男、どこかで見たことがある。「どことなくわたしに似ていた」。語り手は気付く。彼の「顔立ちは七年前にいつも映し出されていたわたしのものと完全に一致した」
 衝撃の邂逅である。が、語り手は取り乱さず、「その男に向かって手を差し出すと、彼のほうもわたしの手を握り返してきた」。男は語り手に言う。

** ――《しばらくのあいだ、きみといっしょにいたいのだ。二度と帰らぬつもりできみがここを離れたときから、ぼくはここに留まっていた。時の過ぎ去らぬこの小さな都会で、ぼくは断じて動こうとせずに、何をするわけでもなく、ただきみの帰りを待っていた。(略)けれどもいまは、ふたたびきみと一つになりたい。きみに寄り添っていたい。きみといっしょに暮らして、過ぎ去った歳月のあいだにきみが生きてきた物語を、きみの口から聞きたい。ぼくは、あのころのきみと、まったく同じなのだ。あのころきみが知っていた以上には、きみのことを何も知らない。きみにはわかるはずだ。ぼくが知りたい、聞きたいと願っている、この気持が、どういうものか。どうかぼくを、ふたたびきみの道連れにしてくれないか。世界からも、時間からも、隔絶された、この小さな都市を見棄てて、きみがまたもや立ち去るまでは。》 **

 これはまるで、愛の告白。過去の自分と現在の自分、ふたりの蜜月は、しかし長く続かない。なんとなれば、「彼が滑稽な思想や時代遅れの理論の持主」であり、「わたしなどには微笑ましく見えたり、噴飯ものと思われてならない、陳腐な情景を前にして、精神の昂りを見せる」から。

 傲岸不遜、あくまでも世事に疎く、人生の秘密への救いがたい無知、そういった態度の一つ一つは、初めのうちこそ、わたしの心を楽しませてくれはしたが、すぐに倦怠を覚えさせるようになり、わたしの胸の裡に同情にも似た侮蔑の念を芽生えさせ、やがて、それは嫌悪にまで募った。

  ここまで読み進めて、私は、ほんとうに、胸を引き裂かれるような思いだ。「泉水のなかの二つの顔」の語り手が目にしているのは、畢竟、太古に封印したはずの忌まわしき記憶、ちらとも思い出したくない、他人に知られたが最後、潔く自死を選ぶほかない<黒歴史>の実体化にほかならない。
 そんな男が、目の前で、笑い、歌い、飲み食いし、しゃべっている。しゃべるな、頼むから。悪臭芬々たる思い出には蓋もできよう。とはいえ、いま対峙しているのは、生身の人間なのだ。黙らせるには、こうする以外にないのだ。

 …わたしたちの二つの顔が寄り添いつつ、暗い水鏡の上へ浮かび上がってきたとき、やにわに、振り返って、わたしは過去のわたしの両肩をつかみ、彼の顔が浮かび上がってきた水面めがけて、その中を覗きこんでいた顔もろともに、彼の身体を押しこんだ。そして水のなかへ彼の頭を押さえつづけ、煮えたぎる憎悪をこめて、力を緩めようとしなかった。身を振りほどこうとして、彼の足は激しく宙を蹴ったが、彼の頭は波立つ泉水のなかへ押しつけられたままであった。何分経ったであろうか。やがて、彼の身体が力を失い、ぐったりとなるのを感じた。押さえつづけていた手を、わたしは放した。すると彼の身体は、水の底へ、ゆっくりと沈んでいった。憎むべき過去のわたしは、過ぎ去った歳月の、愚かしくも滑稽なわたしは、こうして、永遠に死んだのである。

 もし私の前に過去の自分が現れたとしたら、おそらく、というより間違いなく、私はこの小説の語り手と同じ罪業に手を染めることだろう。人は、現在には、未来にはなんとか耐えられるが、過去には到底我慢ならない。
 だが、ほんとうに、これで終わったのだろうか? たしかに語り手は、忌むべき自己の分身を殺害した。ハッピーエンド? ありえない。そんな単純な問題ではないのだ。
 パピーニの別の短篇では、「すべての現在は自分たちの手によって未来のための犠牲にされ、その未来はやがて現在となるが、またもや別の未来のための犠牲にされ……」(「逃げてゆく鏡」)という、鼬ごっこのごときヴィジョンが提示されている。
 そう、まさしく鼬ごっこ。現在は刻一刻と過去に追いやられ、私は一瞬ごとに増え続ける。かつての私を殺した語り手は、いつの日か、更なる未来を生きる語り手によって殺害されるやもしれず、人知れずmixiのアカウントを削除した私によって綴られたこの文章は、数年後、他ならぬ私自身の手で抹消されているかもしれない。いい加減、私にはうんざりだ。ボルヘスのあの有名な一節を引いて、稿を閉じたい。「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」(「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」)。

☆ 今回読んだ本
ジョヴァンニ・パピーニ著 / ホルヘ・ルイス・ボルヘス編 / 河島英昭訳『逃げてゆく鏡(バベルの図書館30)』(国書刊行会)

 おまけの一冊
藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿(藤子・F・不二雄 異色短篇集1)』(小学館)
⇒ 大傑作「自分会議」を収録。パピーニにおいて、過去のわたしは現在のわたしによって抹殺された。ちょっと待て。現在のわたしとは、そして未来のわたしとは、果たしてそんなに偉いのか? 過去から未来への凄絶な復讐を描く恐怖の短篇。


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