マキューアン

【短篇小説千本ノック6】向こう側の語り——イアン・マキューアン / 宮脇孝雄訳「押入れ男は語る」

 子どもの頃、押入れが怖かった。むしろ、いまでも怖い。
 押入れにかぎらず、私は物心ついたときから閉所恐怖症の気味があって、そもそも狭くて暗いところが苦手なのである。
 古いエレベーターに乗ると呼吸が浅くなるし、扉の上下に隙間のない個室トイレにも極力入りたくない。利用したことはないが、カプセルホテルなんてのもたぶん無理だろう。
 とはいえ人間の趣味嗜好は千差万別、狭くて暗い空間は逆に落ち着くという人も世の中には一定数いる。イギリスの小説家イアン・マキューアンの短篇「押入れ男は語る」(短篇集『最初の恋、最後の儀式』所収)の語り手もそうした者のひとりだ。

 あの女の子を見たときに何をしたかというんですね。わかりました、話しましょう。あそこに押入れがありますね。部屋の大部分を占領している大きな押入れが。あそこまで走っていって、中に飛び込んで、オナニーをしたんです。手を動かしながら、あの女の子のことは考えていなかったと思います。ええ、そんなこと、耐えられませんから。心の中に閉じこもって、ちっちゃくなっていました。そうすると、早く射精できるんです。こいつは不潔な変態男だ。あなた、そう思ってますね。でも、あとでちゃんと手を洗いましたよ。(イアン・マキューアン / 宮脇孝雄訳「押入れ男は語る」以下出典の言及がない太字部分は同作の引用)

 初期のイアン・マキューアンは、小児性愛、近親相姦、母殺し、服装倒錯など、アンモラルな題材を好んで描いており、それは処女長篇『セメント・ガーデン』及び、最初の単行本として刊行された短篇集『最初の恋、最後の儀式』を読めば、いやというほどよくわかる。
 というより『最初の恋、最後の儀式』に収められた短篇をボトムアップ式に発展させたのが『セメント・ガーデン』であって、しかもそこで扱われたいくつかのテーマは、以降のマキューアン作品でも引き続き変奏されていくことになる。
 上に引いた書き出しの文章に目を向けよう。
 語り手の男は「部屋の大部分を占領している大きな押入れ」のなかで、自慰に及んだらしい。それを、おそらくは目の前にいるだれか(もうすこし読み進めると、彼の家を訪問中のソーシャル・ワーカーということが明かされる)に語っている。要するにそれだけのことだが、彼の語りには不可解な部分が多い。
 彼は「女の子を見たとき何をしたか」と(彼の発言に従うなら)問われ、「オナニーをした」と答えている。にもかかわらず、「手を動かしながら、あの女の子のことは考えていなかった」という。なぜか。曰く、「そんなこと、耐えられ」ないからで、「心の中に閉じこもって、ちっちゃくなっていました」。性欲発散のための自慰行為が、いつの間にか、自身の内部に沈み込んでいくための儀式として機能している。その後に続く語りもやはり要領を得ておらず、彼とその目の前にいる(と思われる)ソーシャル・ワーカーとの間に、コミュニケーションの断絶があるのは明らかだ。
 この「押入れ男は語る」という短篇は、以降も終始、彼の独白によってのみ語られる作品であり、それ以外の人物の視点が挿入されることはない。以下にしばらく、彼が物語る自身の来し方を、適宜引用しつつ要約してみよう。

 父の顔を知らずに生まれた彼は、母親の手で育てられた。母親は彼を溺愛し、「いつまでたっても子供のままでいるように、いろいろ邪魔をしてくれた」ために、「十八になるまで、ろくに言葉もしゃべれ」なかった。昼も夜も母の腕に抱かれ、病人用のベッドに寝かされ、よだれかけをされた状態で、粥のような幼児食を食べさせられる日々。「頭がおかしかったんですね」
 しかし彼が十七歳になると、母の執着は別の男に移り、邪魔者扱いされるようになった彼は、ある施設に入れられる。そこでなんとか大人としての振る舞いを身につけた彼は、二十一歳になると同時にロンドンに出て自活をはじめる。なんとかホテルの皿洗いの仕事を得るが、にきび面のコック長に目をつけられ、陰湿ないじめを受ける。
ある日、大オーブンの掃除を言いつけられた彼がその中に入ると、外から扉を閉められてしまう。コック長の仕業である。コック長のいじめは常軌を逸したものであり、そのあたりの描写は、閉所恐怖症の私にとって、読んでいるだけで気が遠くなるほどおそろしい。

(オーブンに閉じ込められて)六時間くらいたったかな、と思いはじめたとき、外からにきび男の笑い声が聞こえてきました。そのあと、オーブンの中が、急に熱くなってきたんです。(略)そのうち床にすわれないくらい熱くなって、しゃがみ込みましたが、靴底をとおして熱が伝わってきます。顔が焼けてきて、鼻の穴が熱くなりました。汗がだらだら流れ、息をするたびに喉が焦げるようでした。触ると火傷しそうなので、壁を叩くこともできません。叫びたくても、空気が肺に入らない。このまま死んでしまうかもしれない、と思いました。

 オーブンに閉じ込められ、ひどい火傷を負った彼は、コック長に煮えたぎった油をぶっかけるというかなり過激な復讐を遂げ、皿洗いの職を辞す。火傷の傷が癒えると次の職を探すが、どうにも気が乗らない。「おふくろと一緒にいたころのことを、懐かしく思い出すようにな」り、「真綿でくるむように大切にされ、自分では何もしなくてよかったあのころ」に戻りたいと願うようになる。
 しかし、意を決して訪ねていった生家には、すでに別の家族が住んでいる。母親はいない。しかたなくロンドンへと戻った彼は、あのオーブンのことを何度となく思い返すようになる。

 気がつくと、オーブンのことから頭から離れなくなっていました。どこかのオーブンに閉じこめられて、外に出られなくなる。そんな白昼夢さえ楽しむようになりました。(略)わかりますか? 本当は、困ったことになるのを楽しみにしていたんです。出られないところに閉じこめられたいと思っていたんです。心の底では、そんな気持ちになっていたんですね。実際にオーブンに閉じこめられてみると、怖い気持ちや、にきび男への怒りが先に立って、楽しめなかったんです。でも、あとで考えてみると、本当は楽しみにしていた――と、まあ、そういうことです。

 仕事は一向に見つからず、その後は万引きで生計を立てていくが、ついに捕まって刑務所に入れられる。刑務所の生活も、彼にとっては決して悪いものではない。
 出所後、ある屋根裏部屋に引っ越した彼は「部屋の大部分を占領している大きな押入れ」のなかで、「何時間もじっとしてる」だけの生活をはじめる。彼には、自由も、仕事も、セックスも、他者とのコミュニケーションも、どうでもいい。乳母車から盗んだ毛布で一杯にした押入れに入って、暗闇の中、ただ安らかに過ごしたい。彼は言う。

 もう一度、一歳の赤ん坊になりたい。でも、無理なんです。そんなことは無理なんです。

 押入れか、と私は考える。そんなに居心地のいいものだろうか。本稿の冒頭で述べたとおり、私には閉所恐怖症の傾向がある。これまで生きてきて、押入れで安らぎたいと思ったことはない。
 が、成人してのち居酒屋などに行って、小さい頃には、ただただキモくて不味い、としか思っていなかった塩辛とかホヤとかを日本酒と一緒にいただくと、美味しいものだな、と感じたりする。要するに味覚が変わっている。ならば押入れに代表される閉所恐怖も、齢三十一となったいまではすでに克服され、知らぬ間にその暗闇に安らぎを感じるようになっていないともかぎらない。
 ということで、入ってみた、と即座に行動できようものなら私はそもそも小説など読んではいないだろう。ではどうするかといえば、押入れとはどのような空間であるか、ここらでちょっと考察してたい、とおもうのである。

 物心ついた頃の私が、押入れについて、その押入れ性をはじめて認識したのは、絵本『おしいれのぼうけん』(田畑精一、古田足日)がきっかけであった。この絵本のなかで、押入れとは別の世界への入り口である。そこからは無数の鼠を従えた無気味な老婆、ねずみばあさんが現れ、お仕置きとして押入れに閉じ込められた子どもたちをかどわかす。どうも私の閉所恐怖の源泉にはこの『おしいれのぼうけん』があるのではないか、という気がするが、定かではない。
 また乱歩の有名な「屋根裏の散歩者」において、主人公・郷田三郎の屋根裏散歩とその後に続く殺人の直接の原因となったのが、やはり押入れであったことを思い出しておこう。乱歩の主人公たちは、大なり小なり視ること、すなわち窃視の快楽を知る者であり、窃視とは一方向的なまなざしによって相手を所有しようとする願望であろう。乱歩は押入れの魅力を知った郷田三郎の心理を以下のように描写している。

 さてそこ(引用者注:押入れ)へ寝て見ますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝転んで、目の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、一寸異様な味いのあるものです。襖をピッシャリ締め切って、その隙間から洩れて来る糸の様な電気の光を見ていますと、何だかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなった様な気がして、愉快ですし、又それを細目に開けて、そこから、自分自身の部屋を、泥棒が他人の部屋をでも覗く様な気持で、色々の激情的な場面を想像しながら、眺めるのも、興味がありました。(江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」)

 当の自分の部屋を「泥棒が他人の部屋をでも覗く様な気持で、色々の劇場的な場面を想像しながら、眺める」彼は、あたかも郷田三郎というアイデンティティを捨て去っているかのようだ。ここにおいて押入れとは、人間を内部から外部への一方向的な窃視のまなざしへと変える装置である。ただしそこで試みられるのは、あくまで水平的な窃視に過ぎず、彼が真の意味で他者を所有(=殺害)するためには、屋根裏からの垂直的な窃視、そのタイミングを待たねばならない。

 押入れからの窃視を現代怪談として見事に昇華させたのが、巷間「押入れの女」として伝わる話である。偶然マキューアンの短篇とタイトルが対になってるのだが、内容は全然関係ない。
 これは実によくできた怪談で、有象無象の都市伝説やネットロアにしてはオチもうまく効いている……とおもっていたら、やはりというか元ネタがあり、二〇〇〇年に日本テレビで放送された『学校の怪談 春の呪いスペシャル』というオムニバス・ドラマの一篇「恐怖心理学入門」のストーリーをそのままなぞっているのだった。
 とはいえまあ、怖いことには変わりがないので、読者諸賢においては、ネットであらすじを読むなり、ドラマ版の動画を観るなりしてほしい。押入れについていろいろ読んだり書いたりしていたら、だんだん押入れがおそろしくなってきた。こんな話、引用したくもないのである。ご容赦願いたい。

 要するに、小説作品にかぎらず、物語における押入れとは、①異界への入り口、②窃視装置、という二種の機能を担うものである。
 話をマキューアンの「押入れ男は語る」に戻すと、押入れ男の願いは、「もう一度、一歳の赤ん坊になりたい」という一点に集約されており、②には合致しないように思われる。彼にとって押入れとは、上記した願望成就のための装置であり、すなわち、母親の胎内というもはや戻ることのかなわない世界の隠喩として、①の役割を担っているといえよう。が、ことはそう単純な話でもないのだ。
 先にも述べたように、この小説は、あくまで語り手たる押入れ男の独白によってのみ成立している作品であった。彼の語りは物語内における聞き手(ソーシャル・ワーカー)に向けて発信されたものだが、逆に言えば、彼以外の語りが存在しないこの物語において、彼の語りの信憑性を担保するのは、彼の語り以外にない。
 世界には無数の物語がある。物語Aでは真であったものが、物語Bでは偽である。してみれば、押入れ男の物語を批判・検討する物語を持たない以上、私たちは彼の語りを真と見做さざるを得ないのだろうか? 彼の物語は、いったいどこまでが真実なのだろうか?
 率直に言って、それはわからない。
 彼の語りは透明性を欠き、読者は彼の声に耳を傾けることはできても、押入れの向こう側に逼塞する彼の姿を目にすることはできない。言い換えれば、読者は彼の一方的な語りを信じるほかなく、いわば目隠しされたに等しい状態に置かれている。
 声(語り)はすれども姿(真実)は見えず。
 それこそがこの「押入れ男は語る」という小説に仕掛けられた、物語の陥穽だろう。そしてマキューアンは、2016年には、以上に述べたナラティブの方法を更に発展、深化させた長篇『憂鬱な10か月』(原題"Nutshell")を発表しており、その間の飛躍もまた目覚ましい。まったく、小憎らしいほど巧みに読者の死角を突く作家なのである。

 次回とりあげる作品はまだ未定だが、ちょっとラテンアメリカの界隈をうろついてみようかな、と思っている。多謝笑覧。

☆ 今回読んだ本
イアン・マキューアン / 宮脇孝雄訳『最初の恋、最後の儀式』(早川書房)

江戸川乱歩『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』(光文社)

 おまけの一冊
井上靖『補陀落渡海記 井上靖短篇名作集』(講談社文芸文庫)
⇒ 閉所恐怖が凝縮された表題作を収める。死ぬのはいやだ。


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