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何もしないでお金をもらう事が辛い理由

子供の頃は、世界はとても公正で、価値のある競争に溢れているように見えていた。

テストの点数を競ったり、人と協力して生産的な活動をしていれば、それがいつか社会に価値を生み出すことに利用されるはずだという、無邪気な期待があった。

少なくとも新卒で初任給を得る時点まではこれは正しかった。しかしなぜか、社会人を経験していくごとに、この世界はどこかがおかしい、何なら完全に狂っているような気がしてくる。

社会のためになるような事をしてもお金にならず、しかし一方で、おおよそ社会に与える影響は害の方が大きいような仕事が大金を生み出していたりする。一体自分は何によって対価を得ていて、何に対価を払っているのか、全くわからないのだ。

ここから私自身の経験を少しだけ共有するが、過去に勤めた会社を批判する意図はない。むしろ、そうした経験は実にありふれているのに、「意味のない仕事でお金を稼いでいてつらい」なんていう感情を表す語彙もそれが溢れている現状も認知されていないために、誰にも言えない悩みで苦しんでいる人を救うためにこれを書いている。

殺伐とした記事なので、定期的に文鳥の写真を挟んで清涼剤にします。
これは文鳥のおしり。

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仕事をしない方が価値を生み出せる気がした

私は大学を出てゲームエンジニアになった。ニッチな技術に傾倒し、それが買われて大きめの会社でその技術を開発する業務に就いた。この時は仕事もやりがいがあり、幸せだった。

私がこの世界が狂っていることに気がついたのは、その技術が完成した後だった。業界内でも注目され、まさに学生の頃考えていたような夢をおおよそ実現したと言って良い状態だった。外から見て、それは羨望の対象でありさえすれど、軽蔑の対象にはなりえない、はずだった。

まさにその時、私は鬱状態になった。それまでは鬱とは無縁と思えるほど前向きな人間だったのだが。しかも、その時の状態といえばおおよそ鬱と結びつけられるような「ブラック」「低賃金」「重圧」といったものとは完全に真逆と言っていい状態であるにも関わらず、だ。

端的に言って、私がするべき仕事はその会社にはもう無かったのだ。しかし、その事を認識している上司は一人も居なかった。私は専ら一人でそれを完成させたし、その部分では信頼されていたが、もうこれ以上その仕事が必要ない事を理解しているのは私だけだった。

そこから転職を考えるわけだが、かといってすぐに辞めるのは難しい。生活がかかっているし(その時は貯金も無かった)、会社もすぐにクビにできるわけではないし、かくして一時的にではあるが「会社に行って何かやるべき事があるようなフリをするだけでお金がもらえる期間」が生まれた。

これはかわいいだけで何もしなくても高級なエサがもらえる文鳥。

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端的に言って、これは羨ましい状況だと思うだろう。なにせ既に勝ち得た信頼によって、ほとんど何もしなくても給料がもらえるのだ。しかし実際には真逆だった。私はもはや給料に見合う成果を新たに生み出せないのに、人を騙すようにしてその場に居座ることが苦痛でしかなかった

さらに会社からは「朝はちゃんと来るように」「遅刻するなら連絡して」とだけ命令される。これには全くもって混乱させられた。私にとって朝起きることというのは他人と比べて最も苦手とする部分であったのだが、しかし、会社が給料を払うタテマエを維持するためには、私が実際にどんな価値を生み出しているかという事よりも、私が朝ちゃんと起きて会社にいるかどうかだけが重要なのだという事である。

かくして私はどんどん罪悪感の地獄に嵌っていき、私が会社を休んだほうが私の有給が消化され、何なら無給休暇になって「不当な賃金」を受け取らずに済むので、休んだほうが社会のためではないか、などと考えるようになっていった。

会社を休んで家に居たほうが、その頃飼い始めた文鳥の世話を滞りなくできるし、何なら趣味でやっているゲーム開発やブログ執筆の方が、私が無意味に朝起きて会社に行く事よりもはるかに多くの価値を社会に生み出しているように感じられた。そしてそれは真実だった。

飼い始めた頃の文鳥。(※↑のと同一個体)

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結局、最後の方は会社にほとんど行かないような状態になりながら、なんとか転職を決めていろいろあって今は楽しく仕事ができているのだが、それ以来、私はこの世界のお金の動き方に強い疑問を抱くようになっていった。

なぜ、多くの人に正しい情報を伝えることはお金にならず、それでいて、誇張した情報や間違った情報を広める仕事はお金になるのか。

なぜ、生み出した価値を社会に共有せず、ただ一社に独占的に提供することでしかお金を得られないのか。

そもそも、どうして私達は十分豊かに暮らす資源と技術を持ち合わせながら、誰もがフルタイムで働かなくてはならないのか??

とはいえ、取り立てて経済の知識が乏しい自分には、これといった答えが見つからなかった。そんな中で最近、衝撃的な本に出会う。2020/7/30に和訳が出版された世界的なベストセラー、「ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論」だ。

ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論

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紹介文を引用しよう。

やりがいを感じずに働いているのはなぜか。ムダで無意味な仕事が増えているのはなぜか。社会の役に立つ仕事ほどどうして低賃金なのか。これらの謎を解く鍵はすべて、ブルシット・ジョブにあった―。ひとのためにならない、なくなっても差し支えない仕事。その際限のない増殖が社会に深刻な精神的暴力を加えている。証言・データ・人類学的知見を駆使しながら、現代の労働のあり方を鋭く分析批判、「仕事」と「価値」の関係を根底から問いなおし、経済学者ケインズが1930年に予言した「週15時間労働」への道筋をつける。ブルシット・ジョブに巻き込まれてしまった私たちの現代社会を解きほぐす、『負債論』の著者による解放の書。

ここまでの話に共感いただいた方であれば、是非そのままこの本を手にとって読んでみることを強くオススメする。

この本の元となった小論「クソどうでもいい仕事という現象」については、2013年に世界中で話題となり、日本語でも簡単な要約が読める。

ここからは、私がこの本(Bullshit Jobs)を読み終えて、自分の中で整理できた以下の事柄

「なぜ意味のない仕事が生み出されるのか」

「なぜ実質的な仕事の給与は低く抑えられるのか」

「なぜ意味のない仕事で対価を得ることが辛いのか」

「どうしたら意味のある仕事でまともな対価を得られるのか」

について、この本を引用しつつ解きほぐしていきたい。

Bullshit Jobs(クソどうでもいい仕事)とは何か

はじめ断っておくと、「クソどうでもいい」というのは、働いている本人がそう感じているかどうかによって定義されている。特定の職種がすべて無意味だというわけではないし、全ての人に共通する「意味」や「価値」を定義しようとしているわけでは無い。

この本による定義は、

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではない(※無意味ではない)と取り繕わなければならないように感じている。

とされている。

そして、実際にそのように感じる人の数は非常に無視できないまでになっているのだ。この小論がきっかけとなってイギリスで行われた世論調査によれば、「世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対して、実に37%もの人が「していない」と答えたという(13%が「わからない」で、「している」と答えたのは50%)。

この記事の公開に合わせて、私自身もTwitterでアンケートを取ってみた。サンプルに偏りがあることは否めないが、私の周りでも「仕事が社会的に無価値と感じる」人が実に全体の34%を占めている。

この調査結果は絶望的であると同時に、今まさにそうした環境で自らの存在価値を疑ってしまっている人にとっては救いだろう。なぜなら、彼らには「筋書きの欠落」が起こっているからだ。

Bullshit Jobsで解説された内容を紹介しよう。例えばもし、あなたの悩みが恋愛における片思いであれば、その悩みを相談することは可能だ。少なくともタブーではない。それは、片思いの人がどう感じて、どのようにその葛藤と向き合うのか、という物語が様々な形で共有されているからである。しかし、実は片思い「される」方がどのようにその感情に対処すればよいかは、一般的に物語で描かれにくく、そうした人のほうが自らの気持ちに対処できないことが多いのだという。これを「筋書きの欠落(Scriptlessness)」と呼んでいる。

同様に、あなたの悩みが「仕事で何の価値も生み出していないのにお金をもらっている」事だとすると、ここでも筋書きの欠落が起こっている。そんな時、どう振る舞えば良いか、そもそもそんな悩みが共感されるのか、どこにもそれを示してくれる物語が存在していないのである。そのため、自らの悩みを、悩みとして相談して良いのかどうかさえわからない。そのように悩むこと自体が傲慢であり、自らの不徳のせいではないか、などと考えてしまうのだ。

過去の写真と対比され「お前は何文鳥を目指しているんだ」と詰め寄られる、筋書きのない成長をする文鳥。

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しかし、Bullshit Jobsの著者に寄せられた数々の証言からすると、こういった悩みは決して珍しいものではなく、むしろ、誰も表立って言えないだけで、同じ悩みを持っている人が非常に多いということがわかるのだ。

Bullshit Jobsではこれら「意味がないと感じられる仕事」を5つのパターンに分類している。(カッコ内は私による補足と例示)

●取り巻き(フランキー)
だれかを偉そうに見せたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事。(置物となっている受付嬢やお飾りの部下など)

脅し屋(グーン)
雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素をもち、そのことに意味が感じられない仕事。(広告に携わる人や企業の顧問弁護士など)

尻拭い(ダクトテーパー)
組織の中の存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事。(やる気になれば自動化できるはずなのに放置されている仕事)

書類穴埋め人(ボックスティッカー)
組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事。(不要または不可能な調査を行い、書類上にまとめるが、誰もその書類を後から見返すことが無いような仕事)

タスクマスター
他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブをつくりだす仕事。(信頼できる部下と不信を抱くエグゼクティブの板挟みにされている中間管理職)

繰り返しになるが、これはある業種の仕事が全て無意味であるという意味ではない。Bullshit Jobの定義とは、働いている本人が無意味だと感じてしまう事に依拠しており、本人が納得していれば少なくともそれはBullshitではない。ただ、おおよその傾向として、自分たちのやっていることが社会的に無意味なのではないか?と感じてしまう人、業種が増えているという事は明らかなのだ。

なぜ意味のない仕事が生み出されるのか

これらの仕事が生み出される社会的、歴史的な背景はこの本で事細かに語られているので気になる方は是非読んでほしいが、それらの原因を抽象化してまとめるために私が考えた仮説をここでは提示したい。

すなわち、人間は「実際の価値」にお金を支払っているのではなく、「価値がありそうに見える」ことにお金が支払われている、ということだ。(こう言ってしまうと、何を当たり前のことを、と思うかもしれないが)

「価値がありそうに見せる」ために、人を騙したり、わざと失敗して難しそうに見せたり、わかりきっている事やわかるはずのない事を書類にして可視化したり、何かを生み出すより何かを生み出しているような素振りを見せる、といったブルシット・ジョブが生まれてしまう。

だから、もしあなたがクソどうでもいい仕事をやらされているとしても、それはあなたの能力のせいとか、あなたの価値がそれしか無いということではない、ということはハッキリさせておきたい。それは、端的に言ってお金を持っている人やお金を払う人の価値判断が正しくないからなのだ。

「価値判断が正しくない」というのもその人が無能だとかいう意味ではなく、人間とは誰しもそういうものだと思うしかない。

例えば、ここに化粧品がいくつか並んでいるとして、それぞれが色んな科学的(か、エセ科学的)根拠によって肌がキレイになると謳っている場合に、あなたはそれを、科学的に検証可能だろうか?殆どの場合不可能だ。あなたはそれを、成分表示でなんとなく効きそうなものがあるか、パッケージの見た目、CMで見たことがあるかどうか、好きな有名人が推しているかどうか、などで判断するしかない。

女優さんがその商品のおかげで美しいのか、それとも元から美しいのか、あるいはCG加工によって美しいのか、どうやって判断できようか?

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あるいは、ある人の面接や仕事での素振りからその人の価値を定量的に判断できるだろうか?しかもそれが何千人の社員や、何万人の公的支援の対象者などとなると、「誰かコイツらが真面目かどうか、まとめて教えてくれ」と思うのではないか?そして、概して最も現場の近くにいる人間からは、現場が真面目に働いていることなど完全に明白であり、それを疑うコストの方が無駄であるとわかってしまうのだ。

私自身が経験した「具体的な仕事は命令されないのに、出勤の時間だけは命令される」という事もこれと同じだった。すなわち、私の仕事が具体的な価値を生み出しているか、給料分に値するかどうかなど、真面目に計算するのはほとんど不可能であり、今までの信頼をもとに「多分大丈夫だろう」と予想するしかない。それよりも、「そもそも会社に来て仕事をしているのか」という事のほうが簡単に定量化でき、誰が見ても判断しやすい、実に明確な指標となるのだ。

なぜ実質的な仕事の給与は低く抑えられるのか

Bullshit Jobsではこれに対立する概念としてReal Jobs(実質的な仕事)がよく持ち出される。実際にモノを作ったり、メンテナンスしたり、人をケアしたりする欠かせない仕事だ。例えばベビーシッターとして実質的な仕事をしている人が、給与が安すぎて自分の生活がままならず、仕方なくクソみたいだが金払いの良い仕事に転職する、といったストーリーが本書では紹介されている。どうしてこのような事態に陥っているのだろうか。

この根本的に倒錯している(実質的に価値のある仕事から真っ先に給与が減らされる)関係について、本書は2つの面から実に鋭い指摘をしている。

1,数量化の対象となるから

1つ目は、それが「実質的であるからこそ、数量化しやすい」ことによるコストカットの圧を受けることだ。

本書では貨幣がもたらした価値観の変化を以下のようにえぐり出している。

貨幣の導入がもたらすあらたな次元、それは正確な量的比較を可能にする力である。貨幣を使うならば、この量の銃鉄はフルーツドリンク何杯分、ペディキュア何個分、グラストンベリー音楽フェスティバルのチケット何枚分と、同一の価値を表現することが可能となる。あたりまえのように聞こえるかもしれないが、ここにひそむ含蓄は深い。

あなたが生産者であれば、あなたの仕事は誰の目から見てもその価値が明白になる。あなたがジャガイモを何個生産したか、何人分の料理を作ったか、何個モノを運んだか、何枚のアニメ動画を描いたか、明白に数量化可能だ。

実質的な仕事は市場から見ると一つの数値となってしまう。

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そして数量化可能ということは、その仕事がなにか「かけがいのないもの」ではなく、単に給与に対してどれだけの価値を生み出したかという「コストパフォーマンス」で測られることを意味する。そして近年、そうした実質的な仕事は大部分が効率化され、人間はほとんど働かなくても済むようになる……はずだった。

しかし残念ながら、「雇用を守る」という前提だけはそのまま残っている。そのため、「実質的な仕事を監視し、効率化させる」ようなコンサルタントや中間管理職、それらを「正しい方向に導く」ためのエグゼクティブなど多くの新たな仕事が生み出される一方、数量化可能な仕事をする人々はますます人ではなく数値(コスト)として扱われるようになっていった

2,道徳的に善い行いだから

2つ目は、それが「実質的であるからこそ、金銭を求めて行うのは卑しい」という社会的圧力を受けるためだ。

本書ではこれを「道徳的羨望」と名付けている。すなわち、「あいつらは実質的に価値を感じられる、誰から見ても善い行いを仕事にしている。俺たちなんて一日中机に座ってクソみたいな書類を書いているのに、あいつらの方が報酬も高いなんて許せない。それはお金のためじゃなくて、”善い行い”のためにやっているんだから、金銭まで要求するなんてもってのほかじゃないか!」というわけだ。

「子供の未来を担う善い仕事”なのに”金銭を要求するのか!」
……その接続詞は、何か間違っているんじゃないか?

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冷静に考えると、これは明らかに倒錯している。まるで、善い行いにはお金を回さず、悪い行いにこそお金を回すべきだ、と言っているのと等しいのである。しかし、非常に奇妙なことにこの言説は力を持っているばかりか、多くの市民がこれを支持するまでに至っている。公務員や国会議員の給与を削減せよと力強く迫る市民は見つかるが、なぜだかそういった圧力が金融、保険、不動産といった(頭文字をとってFIRE部門と呼ばれる)実質的ではない職種に向けられることは少ない。

結果として善い行いをするなどという贅沢は、元からお金を持っている一部の人間のみに許される特権となっている。お金を手にして初めて、道徳的にも善い行いをすることが赦されるのだ。

ここまで読んでいただいたあなたへ。文鳥を愛でることは赦しましょう。

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Bullshit Jobsへの社会的な認知

Bullshit Jobsで給与を得ている人は、世間からは「無意味な仕事で高給を貪りやがって」という批判に晒されながら(いや、実際の所はそんな事を本気で思っている人は少なく、単に本人の認知の歪みであることが多いのだが)、同時に、自分自身でもそれによって大きな罪悪感や無力感を抱いている。

これは非常に辛い事なのだが、Bullshit Jobsのような書籍や、そうした状況が辛く苦しいものだという認識が世間に広まれば、そういった社会的圧力は緩まり、本人の認知を「クソ仕事をやらされてかわいそう」というマイルドなものに変えることができるはずだ。

私自身、すべてを自らの不道徳や無能さに帰結してしまっていた頃の鬱屈とした状況を思い返すと、それを社会の問題、経済の問題、皆の問題と認識できればかなり楽になっただろうと想像できる。

なぜ意味のない仕事で対価を得ることが辛いのか

ここで「意味のない仕事で対価を得る」ことの何がそこまで辛いことなのか、経験のない人のためにその原因を解説しよう。宝くじが当たったような場合と違って、その人が生きる理由を傷つけることが問題なのだ。

現代社会においては、仕事をして対価を得る行為はほとんどの健康な成人にとって「生きていても良いという免罪符」そのものになっている。まるで現世に生まれることは原罪を孕んでおり、仕事によって対価を得ることでようやく赦されるかのようである。

しかし、そんな仕事で求められることが「何もしないこと」あるいは「社会に損害を与えること」だと気付かされた人間はどう感じるだろうか。

自らが生存しても良いかどうか、それを判定するための社会的に唯一の手段が、誰かの役に立つことではなくその逆だというのであれば、自らが生存する理由(金銭)を得るために、自らが生存する理由(社会的価値)を奪われるという、完全に矛盾した状態に置かれているではないか。

それを「何もしなくてもお金を得られて嬉しい」と受け止めるためには、何か他に免罪符がなければ到底耐えられそうにない。少なくとも私はそう感じてしまうのだ。

ここで改めて伝えたいのは、あなたが実際にそのような仕事で辛い思いをしていても、あるいは逆に、そうした状況で心を傷めずにいられている人も、それについて辛い思いを抱き続けたり、あるいは恥じたりする必要はない、ということである。そうした仕事が存在するのは社会的な問題(仕事が無いのに雇用を守らなければならないとか、人間は正しい価値判断ができないので単純化された数値やイメージに頼らざるを得ない、など)が原因なのだ。

その状況に陥ったからといって、あなた自身の価値がその仕事以下であるとか、あるいはそんな仕事をするのは恥ずかしいことだ、というわけではない。呪うべき対象があるとすると、そうした仕事が無いとお互いを信じ合うことができないほど歪んだこの社会なのである。

どうしたら意味のある仕事でまともな対価を得られるのか

最後に、こうした状況に対する解決策を、個人レベルあるいは社会レベルでいくつか示しておきたい。

個人レベルで言うと、実は解決策はいくらでもある。才能と努力によって人から求められるような存在になったり、あるいは事業を興して人に新たな価値を提示することに成功すれば良い。実質的に価値のある仕事でお金を稼いでいる人はたくさんいる。お金持ちだからその人の仕事は無価値なんて事はまったく無いのである。それは単なる僻みであるばかりか、我々が向き合うべきより本質的な社会問題に対するヘイトを逸らし、無意味な階級間の対立に帰着させてしまうだけだ。

本当の問題は、そうした一部の「才能と努力によって高い社会的価値と高い給与を両方得た人」の存在によって、Bullshit Jobsの存在やReal Jobsの給与が低いことが「自己責任」として片付けられてしまうことにある。

言うまでもなく、成功者たちが担う責任の重い仕事というのは、世に潤沢にあるわけではない。たしかに多くの人がそのような立場を争っているが、全ての人間がそうした立場になることは明らかに不可能だ。Real Jobsを担っている、いわゆるエッセンシャルワーカーはそうした競争に敗れているからそのような仕事をしているのだろうか?確かに個々人のレベルではそうした見方もできる。しかし、誰もが成功者になろうとしたら、一体誰がハンバーガーを作り、物を運び、子供をケアし、ビルを清掃するというのか?そのような実質的な仕事なくして、エリートだけで生きていける社会など存在しえないのである。

奇しくも2020年の世界は、こうしたエッセンシャルワーカーが残って働けば(経済は死ぬかもしれないが)生活は十分に可能だということが明らかになった。では、我々は一体何のために経済を動かしているのだったか?それはもはや生きるためではなく、「人間は怠惰であり、週に5日必要とされるような仕事が無い人間は生きるべきではない」というポーズを維持するという意味しか残されていないのではないか。

そして同時にエッセンシャルワーカーが不当に低い賃金で残酷なほど危険な場所に追いやられているという現状も明らかになった。私達はこれを期に、お互いをもっと信頼し、経済や社会の形を見直すべきではないだろうか。

エッセンシャル文鳥。生きているだけでベーシックエサが与えられる。

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Bullshit Jobsの著者が最後に提唱した現実的な解決策は、ユニバーサルベーシックインカム(UBI)の導入だ。UBIの導入は常に「それで人は働くのか」という疑念に晒されてきたが、既に多くの人が「役に立たたないままお金を受け取る」ことを苦痛と感じているのである。もし、UBIが実施され、生活のためにBullshit Jobに就く必要がなくなり、Real Jobを行いながらBIによって十分な生活資金を得ることができるのであれば、今よりも多くの人がより実質的な仕事を、より道徳的に価値があると考えられる仕事を選んで、社会から認められたいと考えるのではないだろうか

競争のための競争はいつ終わるのか

しかし、ベーシックインカムが導入されても、私は世の中からBullshit Jobsが無くなることはないのではないかと感じている。というのも、我々がかくも必死に働いて、時に他を貶めたり自らを良く見せかけたりするのは、結局のところそうした競争の形態が「実際に殺し合って戦争するより遥かにマシ」だからだ。

私は北海道出身で今は東京に住んでいるが、東京の家賃は北海道に比べてバカみたいに高い。それゆえに東京に土地を持っているような人を恨めしくも思うが、と同時に、それを安くしようとしたところで「私の方がもっと東京に住みたい」という人がより高いお金を払うと言えば、誰がそれを止められようか。

要は、東京人は常に「誰が東京に住めるか決めるゲーム」を続けなければならないのだ。東京は魅力が多い。音楽、食事、演劇、多様な文化の恩恵を享受することができる(そのメリットが今まさに消え去ろうとしているわけだが……果たして完全に無くなるだろうか?)。もし、ベーシックインカムによって全国民が働かなくても良くなったとしよう。そうした場合でも、誰が東京に住むべきか決めようとしたときに、その人はやはり週に5日働いて自らの収入を増やし、私こそが東京に住むべきだ、と主張するための金銭を手に入れようとするのではないか。それ以外にどうやって、東京に住むという「限られた数しか手に入らない地位」を、公平に決定できるというのか?戦争ではなく、経済でもないとすれば、ゲームででも競えば良いのだろうか?

もし誰が東京に住むのかをSplatoon2で決めるというのなら……私は一向に構いませんが……それに同意する人は少ないでしょう。お金というのは、それを競うことに全国民が(しぶしぶであれ)同意しているという事に意義があるのです。

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もう働かなくていいよね

こうした無意味な競争を終わらせるためには、社会全体が「俺たちはもうそこまで働かなくても良い」と認め合い、一定以上の就労を禁止するしかない。今でさえ、「週休2日」「8時間労働」という限界値は一応定められている。それすらも形骸化される状況では望むべくもないかもしれないが、いずれこうした数値は、週休3日、4日、いや週休5日にしよう、というように少しずつ私達が競争するルールを変えていくしかない。

週休5日の世界で人間は何をするのだろうか?呆けてVRの世界に浸り続けるのだろうか?もちろんそれも自由だ。しかしそれと同じくらい、余った時間で数学を勉強したり、文学に没頭したり、魚の研究をしたり、コミュニティに貢献したり、家族と過ごしたり、詩を書いたり音楽を作ったりゲームを作ったりできるのではないだろうか。

人々が余裕をもってそのような活動に取り組める世界は、現状のように不必要なまでに厳しく人を管理したり、無意味なイメージ競争を繰り広げたり、金融商品で貧乏人を騙したりする事に労力が費やされる世界より、はるかにマシな世界になるのではないか。

そのような社会は、技術的には何ら問題なく可能なはずなのだ。もし私達が明日からみんな一斉に「週に2日働いている人は十分真面目だ」という価値観を受け入れられたなら。そう願うことの、どこがおかしいのだろうか?

おわりに

この記事をBullshit Jobsの著者であるDavid Graeber氏に捧げます。

本当はこれを英訳して本人に読んでほしいと思って書き始めた記事だったのですが、信じられないことにちょうど書き始めた頃の2020年9月2日、彼の訃報が伝えられました。

David Graeber氏の妻のツイートらしいが、これ以上に信憑性のある情報を私は未だ掴めていない。デマだという知らせも見つけられていないのだが、デマであってほしいニュースだ。

私の心に自由と尊厳を与えてくれてありがとう。

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