本気でゲーム依存に向き合う
香川県によるゲームの規制案について、あまりにもゲームを乱暴にまとめた議論が飛び交っているため、私なりに議論の根本的な前提について整理させてください。
ネット・ゲーム依存症対策条例案に関する状況整理
先日(2020年01月09日)、香川県議会が条例素案としてネット・ゲームに対する規制を検討しているというニュースが世間を騒がせました。
条例素案については、コンテンツ文化研究会様が、「問題点が多く、緊急性も高い」として、入手された紙の資料を公開されています。(検索した範囲ではこの資料しか見当たらず、各所でこの資料をもとに文字起こしがされていたりします)。
私がゲームについて論じる以前に、この条例案にはいくつもの問題が指摘されており、インターネットとゲーム、スマホをひと括りにして規制しようとしていたり、依存症の定義や原因についても根拠に乏しいばかりか、憲法の営業権や子どもの権利条約との相反も指摘されております。詳しくは参議院議員の山田太郎さんの公式Youtubeチャンネルをご覧ください。
1時間の映像を見るのは億劫だという場合は、以下のツイートに続くツリーが上記の動画をうまくまとめられておりました。
他にも複数の議員の方が反対意見を表明しております。
また、香川県議会ネット・ゲーム依存症対策議員連盟が講師として精神科医の岡田尊司氏を何度も招待している事実と条例素案に並んでいる言葉を見比べると、「ネット・ゲーム依存」や「愛着障害」といった言葉や概念が全て岡田尊司氏の著書から引用されていることがわかり、議会、岡田氏、そして四国新聞まで含めた癒着によって反対意見を取り入れずに条例案までこぎ着けてしまった流れが見えてきます。
このように、問題だらけの条例案ではありますが、本記事では、そういった法律上の問題やプロセスの問題には踏み込みません。それは私の専門ではありません。
ただ、万が一そういった問題がクリアになったとしても、この条例はまったくゲームやゲーム依存症の本当の問題に向き合っていないという点で無意味なものになっておりますので、その点を整理していきます。
それは何のゲームの話ですか?
こうした議論を追っていて、一人のゲーム製作者およびゲーマーとして最も違和感を覚えるのが、「ゲーム」が何やら1つの「ゲーム」というものとして扱われていることです。
例えば以下の画像にあるように、香川県議会ネット・ゲーム依存症対策議員連盟の会長、大山一郎氏が「国と地方の協議の場」において発言されていた内容が物議を醸しておりました。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kyouginoba/r01/dai2/houkoku.pdf
この発言によると、「ゲーム」をしたときに「覚醒剤を一定量投与したときと同じ量のドーパミンが出る」という研究結果があるとされています。
(その他にも、スマートフォンが完全にインターネットと同じ(???)とか、スマホのオンラインゲーム(?)を24時間ずっとやる(??)から暴力性が強くなる(????)とか、ツッコミどころは多いのですが)
それ以前に、
覚醒剤と同じくらいドーパミンが出るゲームって、
一体どのゲームですか???
という疑問があります。
スーパーマリオブラザーズですか?
テトリスですか?
Minecraftですか?
ファイナルファンタジーですか?
Fortniteですか?
リングフィットアドベンチャーですか?
まさかデス・ストランディングですか?あなたも配達依存症なんですね。
でも、今のブリッジズにはあなたのような遊戯する人、ホモ・ルーデンスが必要なんです。暴力や法律や規範ではなく、遊ぶことによって人々をひとつにし、文化を作り、世界を創造する人間です。
ーーハートマン(デス・ストランディングより)
ゲームをする人からしたら、ゲームから得られるドーパミン量がゲームによって千差万別であることは百も承知です。もちろん多様性はドーパミン量だけではありません。
友達と一緒に楽しめるかどうか?感動できる物語か?キャラクターを好きになれるか?音楽がカッコいいか?自分の得意なことが活かせるか?何かを学ぶことができるか?プレイ時間を確保できるか?すべてゲームによってまったく違います。
それなのに、ゲーム規制をする、しないの議論になると、全員がまったく違うものを思い浮かべているにも関わらず、まるで唯一つの「ゲーム」なるものがあって、それについて議論をしているかのような錯覚に陥ります。
それで、あなたのいう「ゲーム」っていうのは、結局どれのことなんです?
(我が家のゲームコレクション。当然ながらこれはごくごく一部に過ぎません。ダウンロードタイトルも多いですしね)
お互いがまったく違うものを思い浮かべて延々と平行線の議論をすることは無意味に他なりません。まずは、そもそもゲームが(アルコールや薬物よりもはるかに)多様であること、そして、問題として捉えうるものはごく一部であること、を前提として会話をしようではありませんか。是非、香川県の議員や報道機関の皆様も、パブリックコメントで反対意見を表明される方々も、まずはこの前提に立ってください。
ゲーム依存症に結びつく可能性のあるゲームが一部に存在するから、
全てのゲームを一律に規制するということは、
言い換えるなら、
アルコールという依存性のある物質が含まれるものが一部に存在するので、
全ての飲み物を一律に規制します
とか、
薬物依存を引き起こす違法な薬物が一部に存在するので、
全てのお薬を一律に規制します
とか、そういったレベルの事を言ってしまっているわけです。
通常の飲み物や薬が生きる上で必要なことは言うまでもありません。同様に通常のゲームは、子供達が楽しく生活を送り、友人たちとコミュニケーションし、時になにかを学ぶ際に(飲み物や薬と比べると「必要」とまでは言いませんが)役に立つものであることも事実です。
本当にゲーム依存と向き合ったことがありますか。
国の調査機関がいくら「ゲーム依存」を研究しようとしても、それが「どんなメカニクスのゲームなのか?」「どのようなゲームコミュニティの性質を持っているのか?」「ゲーム以外の社会的要因はどうなっているか?」等に踏み込んで研究がされない限り、延々と「ゲームをN時間やった人はこうなっている」「いや私はなってない」という平行線をたどるばかりです。対象としているゲームがまったく違うので当たり前です。お酒を飲みまくっている人と、水やコーヒーを飲みまくっている人を一緒くたにして調べているようなものです。無意味以外の何物でもありません。
一方で、だからといって、ゲーム依存の研究をまるでする必要がないとは言いません。むしろ、私達ゲーマーこそ「ゲームにハマりすぎてしまったな」「止められなくてゲームを嫌いになりそう」といった事で後悔した経験が多少なりともあるのではないでしょうか。
こんな風に、まいにちのゲームの記録の棒が完全にグラフからはみ出てしまったり。
「ゲームデザインの魔導書02 ゲーティア」の記事「イカはいつナワバリ争いをやめるのか?」より。私が編集長を務め、Splatoonにハマりすぎた3人での鼎談を掲載した。
私達ゲーマーは、「全てのゲームを1時間で切りなさい」と言われたら当然反対しますが、同時に「同じゲームを1000時間やっても終わりが見えない、どうしたらいいんだ?」という悩みも抱えうるわけで、それに対して真面目に向き合い、あるべきプレイスタイルを考え、またどのようなシステムなら幸せにゲームを楽しめる健康的な関係が築けるのか?といった分析、評論を行っているわけです。こっちは本気なんです。
同「イカはいつナワバリ争いをやめるのか?」記事より抜粋。ゲームにハマりながらも幸せでいるためには、ゲーム中の数字よりも何かしらのコミュニティに属した上で「思い出」を作れるかどうかで考えることが建設的ではないか、という結論が導かれた。
上記の記事はSplatoon初代のものですが、現在はSplatoon2にハマっていて、実際1000時間くらいやっているのですが、「止めたくても止められない」感じは1と比べて2のほうが遥かに軽減されており、これはレーティングシステムが整備され、とくにウデマエX以上は適正な勝負がしやすい場所となった事が大きく寄与しています。
また、顔の見えないランダムな存在と戦い続けることは依存性も高く問題が多いですが、コミュニティが醸成されてその中で遊ぶ分には思い出も増えて楽しく遊べるので、そういった面での工夫も今後のゲームには求められるかもしれません。
ゲームの負の側面を軽減し、良い面を享受するために
いずれにしても、ゲームを作る方だってゲームを嫌いになるほど依存させてしまいたいわけでは無いのではないでしょうか。この点についてであれば、ゲーム開発者、プレイヤーそして行政や研究機関とも一致できるはずです。
こんな破滅を繰り返すためにゲームやってるんじゃないんですわ。
どのようなシステムが「辞めたい」と思ったプレイヤーすら「辞められない」と思わせてしまうのか?どのように作れば、「やっていて良かった」という気持ちで長く遊んでもらえるのか?ゲームを好きな状態のまま終わらせたり、他の活動を促したり、次のゲームを安心して買ってもらうにはどうすれば良いのか?
その上でもし、研究結果として、ゲームシステムが主たる原因となって高い依存性を引き起こすような事が、もし仮に結論されたのであれば、その時に、ではそれを法的に規制すべきなのか?定量的な判定は可能か?面白すぎるからゲームを規制するなんてのは間違っていないか?という話ができるわけです。そうした建設的な議論であれば、社会福祉ならびにゲーム文化双方のために重要ではないでしょうか。
ゲーム依存の可能性という負の側面に対して、ゲームデザイン、ゲームコミュニティ、ゲーマー、そして行政を含めて本気で対処ができれば、社会はゲームの良い面を安心して享受することができるようになります。
ゲームには良い面がたくさんあります。
ゲームは楽しいです。
ハマっても、お金や健康を害したりしにくいです。(現状これは、モノによります)
ゲームを上手になる過程で、多くの努力や学習と、それに対する成功体験を得ることができます。
社会に馴染めなかったり、あるいは身体的にハンディキャップがある場合も、ゲームで活躍したり自己肯定感を得ることができます。
卓越した腕前があれば、eスポーツプレイヤーとしての道も開けます。
深くゲームを知ることで、「面白い」とは何か?人間の行動の動機やモチベーションに関して実感を伴って学ぶことができます。
こうした「良いゲーム体験」を得るにはそもそも、「良いゲーム」と出会う必要があります。全てのゲームでこんな体験ができるわけはありません。
そしてゲームを作るようになると、魅力的なゲームを作る事がどれほど大変で、多くの勉強を必要とし、人間に対する理解や心遣いがどれほど大切であるかを学ぶことができます。
こうしたゲームの知見を広げることによって、子供の教育や大人の生涯学習をもっと魅力的に、取り組みやすくして、社会をより豊かにすることも可能なのです。
「ゲーム」を一律で規制することは無意味であるばかりか有害です。
もう「ゲーム」を「覚醒剤」などの1種類のモノと比較した不毛な議論は止めましょう。「スマホ等」「ネット・ゲーム」などと、ハードウェアもソフトウェアもサービスも何から何まで一緒くたにして規制をかけようということが、いかに的外れであるかはご理解いただけるはずです。
ここに、「風ノ旅ビト」という伝説的に素晴らしいゲームがあります。
このゲームはおよそ1周2時間ほどでクリアでき、ネット上の見知らぬ誰かと、言われてもいないのに自然と協力して、寄り添って、そんな世界のどこにいるかもわからない誰かがたった2時間で自分にとって大切なパートナーとなる、そんなかけがえのない体験を与えてくれます。
考えてみてください。こんな素晴らしいゲームを、条例だから1時間で止めなさい、ということが、どれほど残酷で、無意味であるばかりか人類を平和から遠ざける愚行なのか、風ノ旅ビトをプレイした人なら絶対にわかるはずです。そこで出会った世界のどこかにいるパートナーとは、もう二度と会えないでしょう。
こういった短いゲームと、依存症と結びつく可能性のある一部の終わりのないゲームを一律に論じることなど不可能です。
本当にゲーム依存を解決したいのであれば
本当にそう考えているのであれば、
一緒に、ゲームについて知り、考えましょう。
「ゲーム」を一律に規制しようとする限り、ゲーマーは
「リングフィットアドベンチャーはやればやるほど健康になります」とか
「風ノ旅ビトは2時間で感動して終われる最高の体験です」とか
「FF14で出会って結婚しました」とか
無限に反例を持ち出すことができます。
そうじゃなくて、
「どんなゲーム」が依存症を引き起こす可能性があり時にゲーマーすら苦しめることになるのか。そういったシステムを突き詰めていった時に違法薬物ならぬ「違法ゲーム」のような存在を本当に定義できるのか。仮にそれが存在した場合、どのように法的あるいは業界的に規制すべきなのか?
そういった議論を行おうではありませんか。
エアプで適当なことを言うのはやめてください。
ご意見、ご感想は
著者Twitter:@geekdrums
まで頂けるとありがたいです。
参考記事
ゲームデザインの魔導書02「ゲーティア」
今回取り上げたSplatoonに関する記事が載っています。500円ですがもしご興味あれば是非どうぞ。
私がこの同人誌に寄稿したゲームデザイン理論「ワンダールクス」については、こちらのnoteにまとめて無料公開しております。ここでは、人間の全ての活動をゲームとして捉えることでゲームデザインの応用可能性が広がる、という視点で書いています。
1/24追記
本記事ではロジカルさよりも、ゲーム作っている方の熱い気持ちみたいなものを出したため、論理的には穴がある部分(ex.お前の好きなゲームだけ規制から外せばいいのか、等)がありました。そこで、次の記事では、そもそも「悪いゲーム」を定義できるんですか?そこに因果関係を立証できますか?という話をガチガチにロジカルにやりました。パブリックコメントを送りたい方などは是非参考にしてください。