5年越し7度目のリベンジ。
【ご報告】
たくさんの方のおかげで、来春から慶應義塾大学大学院政策メディア研究科に進学することを決めました。大学3年生の6月から就職活動を始めて一年ちょっと。進路を考える上で、たくさん悩んで行ったり来たりしましたが、なんとか、自分にとって1番理想の形で、進路を決めることができました。
SFCに憧れて、学ぶことを志した高校3年生から早5年、たくさんの方に出会い、支えてもらってここまで来れました。ありがとうございました。あと2年、最高の環境で学びを続けます。
やっと立てたスタートライン。この1年の決断を振り返りながら、なぜ、この進路を選んだのかを書き起こしてみました。お時間のある方は下の方にツラツラと書いているので読んで頂けると嬉しいです。
早々に、しっかり躓いた
「自分の夢を諦めたくないな。就活なんてやりたくない。」
そんな感覚で、昨年の6月頃から始めた就職活動。
浪人した分、高校の同期とかがすでに就活を終えていたり、大学2年生の時に通っていた「言葉の企画」でたくさんの社会人のお兄さん、お姉さんに出会っていたから、社会人に話を聞く機会は人よりあったと思う。
だからこそ、自分の中では、なんとなく、なんとなく、「社会に出て、働く」ことのイメージを沸かせていた。
でも、やっぱり自分の中で、まだ「働く」ということがちゃんとは腑に落ちてなかったと思う。
その反動もあって、6月も7月もウェディングの事業をやったり、大学受験塾の校舎のオーナーとして、関西の3校舎を経営したり、建築のコンペに挑んだり。多忙な日々の中で、寝る間を惜しみながら企業にESを出す日々を過ごしていた。(体力すごいなと今では思う。)
ある意味、自分は色々やってきた自負があるから、意外とESくらいは簡単に通ると思っていた。
でも蓋を開けてみると、結果は案外そんなことなくて、出しても出しても祈られて、一向にESは通過できなかった。
建築のコンペでも、もちろん勝てないし、当時は、人から評価されること、客観的な評価にとっても苦しんでいた。
当時書いてたnote。(なんか随分と尖ってた気がする)
結構、評価されることが嫌になって就活をやめてしまってた時期もあった。
でもまた諦めずに試行錯誤をしていくと、夏を過ぎたあたりにはちらほらと、インターンに参加できるようになってきた。(自分のPRの仕方、書き方がわかってきたのはあると思う。)
ESの壁を越えても、次は、やりたいこと、気になり業界があり過ぎて、なかなか絞れないという問題には遭遇していた。でも当時感じてたのは、「やってみないとわからないじゃん」。手触り感、納得感がこだわりの自分にとっては、とりあえず気になるところを片っ端から出していた。(大人のキッザニアが欲しいと思った。)その当時、自分が出していたのは、広告、小売店、ディスプレイ業界など。
でも、とにかくとにかく、自分の将来が見えなかった。自分の未来計画が想像ができなかった。
どこに行っても、働く面白さは見つけられるタイプだと思っていたから、ますますどんな決断をしたらいいのかわからなかった。
こんなにもこだわりが自分にはないのかと自分に幻滅したりもした。
最高の同志と会えた転機
そんな悶々としながら就活を進めてた大学3年の秋。大きな転機があった。
去年の9月に慶應SFCの鈴木寛研究会(通称 すずかんぜみ)に入ゼミしたことだった。
その時の詳しいことはこの下の記事を読んで頂けると!(もうすぐ1年前になるの早すぎる、、、)
いま振り返っても、大学生活において、人生を変えるきっかけになったのはこのゼミに入ったことだと思う。(ゼミ受かったメールが届いた時の感動は今でも覚えてるなあ)
なんでこんなに大切な転機になったかは、一言で言うと
それくらい自分にはとって、大切なゼミである。
入ゼミした当時、建築漬けの生活をしていたのに、すずかんゼミに入るというガラッと環境を変えたのは、「建築から離れよう、諦めよう」と思ったからである。親に浪人までさせてもらって、関西まで来てまでやりたかった建築を僕は、諦めた。
就活もあんまり上手く行ってなかったが、建築(設計)の方も全く順調ではなかった。
自分の代はコロナでもろに影響を受けた代だった。半年以上、学校に行けなかったことで、設計の基礎が学べなかった。でも、そんなことを言い訳にしたくなくて、自分で学んだり、長期休みの期間にも遊ばずに学外のコンペに片っ端から挑戦したりもした。
でも、結果はそんなに簡単なものではなかった。
学生の期間で、学内、学外のコンペを含めて、建築の結果を残せなかった。
それどころか、いろんな先生から酷評、理不尽な評価もたくさんあった。
もちろん、やる気さえあれば、評価なんて関係なかったのかもしれない。好きであれば。
でも、その時の自分は建築が向いていないとはっきりと思ってしまった。
だから、この建築の道に進むことは僕にはできない。
そう思って、大学3年の秋に入る前でしっかりと扉を自分から閉じてしまった。
結局、建築を辞めた空いた時間で何をしてたか。
高校での挫折に続いて、大学でも。自分が好きなもので進めないことがわかった。
そんな自分にとって、もう自分がわからなくなってた。
幸い、ゼミにはたくさんの個性に溢れてる最高のゼミ生が60名もいた。
だから、これはチャンスと思って全員と話す勢いでとにかく1on1を組んでもらい、たくさん話した。
「なんで、その選択をしたのか」
「なんで、そのプロジェクトをやってるのか」
「なんで、そこでそんな決断が出来たのか」
丁寧に向き合って話してくれる中で、自分と同じところ、違うところをとにかく探した。
でも、やっぱり1番すごいなと思ったし、影響を受けたのは
自分の「好き」を大切に出来なくなったのは、いつからだったんだろう。
いつからか、社会からの見え方を気にしたり、就活としての実績を意識したり。
自分が1番自分に期待していないし、面白くない社会の見方をしてしまっていた。そんな自分がダサかったし、それを気づかせてくれたゼミ生には本当に感謝している。
だから、多くの時間を就職活動をする傍らで、自分も「自分の好き」に純粋になりたくて、興味があることには真っ直ぐに向き合い続けてみた。
その結果として、自分が時間を見つけてやっていたのが、「プロダクト開発」「商品開発」だった。建築設計からは離れたい。そんな意識があったけど、やっぱり「作る」ことから離れたくなかった。まだ諦めたくなかった。ずっと作る側にいたかった。
だから、何につながるのかはわからないけど、自分が面白いと思ったクラフトジンジャーエールを通して、プロダクト、ブランドを作ろうと活動した。(周りからはだいぶ怪訝に思われてたけど、、、)
ジンジャエールは自分のワクワクする気持ち。もっと知りたい、やってみたい。そんな気持ちを思い出させてくれた。気付いたら社会に揉まれて、失ってしまっていた少年のような「探究心」をハッキリとくっきりと思い出した。(写真に映る自分がとても楽しそうでよかった)
ジンジャーに連れてってもらった
やっぱり好きには敵わなかった。かなうわけがなかった。
ジンジャエールはどんどんと出店を重ねて、11月には新宿の「味王」で
2月3月では渋谷の「6curry」にて計、7回ほどのポップアップイベントを開催した。
どんどん本気になっていった。
自分が本気で向き合ったものに、大好きな人たちが飲みに来てくれる。
もうそれだけで十分だった。
さらには、ジンジャーエールは新しい人との出会いも連れてきてくれた。
「自分なんて」とばかりに思ってた自分が、生き生きと自分のことを話せていることに驚いたし、そんな自分が好きだった。
さらには、建築にまた気持ちが戻ってきていたことにも気がついた。向いてないのかもしれないと思って、離れた建築。でもジンジャエールを通して、場を、空間を作る経験を重ねていくことをしてきた時に、自分で場を作りたい。強くそう思った。
自分がこれまで憧れもあって「建築=設計」と決めつけすぎてしまっていたことに気がついた。もったいなかったなと思った。
もっと自分の「建築」像を柔らかく出来たら、もっといろんな関わり方もあった。それに気づけたし、見つけた。
自分が見えてなかった建築の面白さを教えてくれたのは、建築を一回離れたからこそ、ジンジャーエールに本気に向き合ったからだと思う。
そして、自分のことを自分以上に信じてくれる人に囲まれたからこそ、自分も自分を大切に、自分が1番ワクワクする道を選びたいと思うようになった。
ジンジャエールやったり、なんやかんや色々あったけれど、中心としていた就職活動もやり切りました。参加したインターンから、いくつかの企業から早期選考ルートに乗せてもらい、着々と最終選考へ。
業種も分野も何も決めきれなかった中で、1番自分が志望していた企業から4月には内定も頂きました。とっても嬉しかったし、自分でもこんなに自信を持てることはなかった。
やっぱり自分のワクワクすること、高校生の頃からずっと学びたかった仮設建築をちゃんと研究したい。大学院に進学して、研究した上で、キャリアを選びたいと思うようになった。
就職したとしても、院に進学しても、どっちの人生を歩んでいたとしても、「自分の人生を幸せにする手段を取れる」と自信を持てた。前までだったら圧倒的に自信がなかった。高校時代に挫折してから、ずっと自分が作るもの、やることに自信がなくなってしまってたから。
でも今なら、自分の可能性に気づいて、まだ自分の可能性を諦めたくない自分が確かにいた。
だから、最後にチャンスがあるなら、まだもう一回だけ挑戦してみたいと思った。
5年振り7度目のSFCへの挑戦
大学院に行って、もう少し建築を学びたい。
中でも大学進学を志望した時からずっと学びたかった「仮設建築」を学びたい。
内定先に無理を承知でお願いして待ってもらい、大学院受験の準備を始めた。
大学院をリサーチしていくと、やっぱり結果として、SFCが1番の学ぶ環境であることがわかってきた。
正直、散々不合格しかもらったことないから、今回なんて受かる自信は全くなかった。
過去のnoteなど、いろんなところで書いてるので詳しくは書くのは避けますが、
どれだけSFCへの想いがあるかを少しだけ書くと
(これ書いててとにかく執念がすごい、、、自分ではSFCオタクということにしてますが、、)
だから、院進すること、中でもSFCに行くことを決めてからは、どこか自分の中で呪縛を解きにいくようなプレッシャーを感じる場面すらあった。
院の受験も簡単なものではなかった。(もちろん大学のAO入試よりは簡単だったかもですが)
志望理由に、研究計画に何十枚にも渡る資料を作成して、しっかりと圧迫面接を受けてボコボコにされて。手応えなんてあったもんではなかった。
今度こそは拾って欲しい、、、
でも受かるなんて自信はどこにもなかった。
だから結果もなかなか見たくなかったし、今回もだめかなと思ったりしてた。
ダメ元で、でもちゃんと自分が出した結果にだけは向き合いたくて開いてみた。
何年も変わらない、慶應のこの合否画面。
今までは、何回見ても、いつだって「不合格」だったから
合格ってこんな表示されるんだ!ってとっても新鮮だった。
結構拍子抜けしすぎて、キョトンとしながらも画面を見ていたらじわじわと嘘ではないとわかって嬉しかったです。
5年経ってしまったけど、やっっっっとSFCにいける。諦めずに足を動かし続けてきてよかった。
諦めなかったら、いつかは勝てるんだなと。自分でもやれるんだなと改めて嬉しかった。
「諦めないこと」「向き合い続けること」だけが自分の武器だったけど、なんとか大逆転勝利出来ました。
大学院では、学部時代に培った建築の基礎をもとに、今ますますアツくなってる「仮設建築」の導入の可能性について、研究を続けます。仮設建築の設計も、政策的な観点もどっちもできるようなプレーヤーになります。
最後に
悩むのが趣味だよねって言われてしまうくらい、あれこれ悩んできました。
でも悩みながらも持ち前の行動力で、現場に行き続けてきたことも事実でした。
いろんな分野をつまみ食いしたし、たくさん種を巻いてきたけれども、四年前の自分と同じことを考えてたみたいです。
自分を押し殺して挫折ばかりでいい思い出のなかった高校生活と打って変わって自分のやりたいことをこれでもかとやり切った大学生活。早く結果が出したくて承認欲求に埋もれて焦ってた大学1年生。コロナで何もできずに腐ってもがいた大学2年生。自分の武器で勝負をしつつも、進路で散々悩んだ大学3年生。誰も知り合いがいないところに飛び込んだ4年間。ポンコツだった自分を関西にたくさん育ててもらいました。
振り返る間もなく突っ走ってきたけど、やっと一つの区切りになったかなと思います。
もう念願の楽園のようなスタートに立てたので、SFCで学べることに感謝して、あと2年学び尽くします。
まだまだ実感が湧くようで沸いてませんが、大学生活も関西での生活も残り半年。また明日から全力で走り抜けます🏃♂️
2022/7/11 後田将人
ps.振り返る中で、写真たくさん見てたら、懐かしい思い出がたくさんあったのでここに貼っときます
更新されないInstagramによって行き場を失った大切な写真たちを添えてしめたいと思います。
最後まで見ていただいてありがとうございました。
ありがとうございます!!!