20代でやりたい事がないとダメですか?遅咲き偉人まとめ
「あなたのやりたい事はなんですか?」
人生100年時代と言われ、平均寿命が伸びているにも関わらず「若くしてやりたい事」を求められ過ぎている気がします。
特に就職活動においては顕著な印象があり、20代で「やりたい事がないといけない」そんな無言の圧力は苦しくないでしょうか。
そこで、今回は年齢を積み重ねてからキャリアの花が咲く遅咲きの偉人をまとめてみました。
保険の外交員、ボーリング場の支配人を経てデビュー
「ミュージックステーション」などの国民的人気番組のMCを担っているタモリが芸能界にデビューしたのは30歳でした。
早稲田大学に入学したタモリは、実は一度東京から地元の福岡に戻っています。当時のタモリは23歳。そこから、7年間のサラリーマン生活を送っています。
最初の社会人スタートは保険外交員でした。3年勤務した後、転職。知人が経営する観光会社に入社します。
その会社がボーリング場を経営していたため、タモリはボーリング場の支配人に。その後は喫茶店の責任者を勤めたりもしています。
しかし、このままの生活に漠然とした不安・モヤモヤを抱えながら、当時の趣味だったジャズ喫茶に通うようになりました。
転機は27歳でした。
ジャズ・ピアニスト山下洋輔がホテルの部屋で騒ぎながら飲んでいると、同じホテルで飲んでいたタモリが部屋の前の廊下を通りかかります。
偶然タモリも同じホテルで飲んでいたそうです。
なんとなく楽しそうだから、という理由でタモリも仲間の輪に加わりそこで、メチャクチャな韓国語を披露。その場は大爆笑に。
その半年後、再び福岡を訪れた山下洋輔がタモリを探し、再会を果たします。
そして「タモリを呼ぶ会」が東京にて開かれるようになり、芸を披露している場にいたのがその後のTVデビューにつながる赤塚不二夫でした。
最初の職業は英語教師。20代後半から執筆活動に
世界的なベストセラー「ハリーポッターシリーズ」の生みの親J.K.ローリングがブレイクしたのは32歳の時でした。
彼女が最初に就いた職業は英語教師。イギリス生まれの彼女は就職をきっかけにポルトガルに引っ越し、そこで知り合った男性と結婚、娘を出産します。
しかし、結婚生活は長く続かず、離婚。イギリスに帰国することになりました。20代の後半になり、元々物語を空想したり書く事が好きだった彼女はここから執筆活動に専念します。
最初は作家活動のみで生活する事は苦しく、幼い娘もいたため、生活保護を受けていました。1995年に「ハリーポッターと賢者の石」を完成させたのは、彼女が30歳になる年でした。原稿を完成させてから、出版社に持ち込みますが断られてばかり。
ようやく1社との契約にこぎ付け、ハリーポッターの作品が世に出る事となったのです。
芸能活動をはじめたのは30歳。最初は本業の「合間」
十種競技で優勝し、スポーツでの華々しい経歴を持つ武井壮。現在は、スポーツ番組だけではなく、バラエティでも幅広く活躍されています。
そんな彼のブレイクは39歳でのTV出演でした。
それまでは、スポーツトレーナーとしての活動に取り組んでいたようです。芸能活動をはじめたのは30歳。
ただ、あくまで芸能活動は「本業」の合間程度だったそうです。
30歳を過ぎた時に本気でプロ野球選手を目指し、社会人の野球チームに入団。しかし、32歳で入団テストを受けさせてくれる球団はないと知り、チームを抜けたりもしています。
とある日、スポーツバーで犬用ガムを噛んで顎を鍛えているところをピエール瀧に「発見」されます。ピエール瀧と森山直太朗がMCの番組に準レギュラーとして、登場。
その後、39歳になった武井壮は森山直太朗の紹介で「百獣の王を目指す男」としてTV番組「うもれびと」に登場。地上波のバラエティで活躍するきっかけを掴みます。
46歳で画家を辞め、その後発明に成功
モールス電信機を発明したサミュエル・モールスがが電報の送信にはじめて成功したのは53歳です。彼は以前は、画家として活動していました。
肖像画家としてのキャリアは華々しく、彼の作品は公的機関にも飾られ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインの初代所長にも就任していました。
それまでのモールスの人生は芸術に全てを捧げており、彼の夢は連邦議会議事堂の壁画を描く事だったようです。
しかし、モールスに不採用の通知が届き、ココが人生の転機となります。
当時のモールスは46歳。4歳から描き始めていた絵をすっぱりと辞めてしまいます。
大学の美術教授をしていたモールスは、大学の研究室を使い電報の開発に着手します。
実は以前、ヨーロッパに絵画修行の旅に出た際に電磁気学に詳しい学者に出会っていました。
そこで、電報の核となるアイディアは彼の中で既に閃いていたのです。
紆余曲折を経ながらも自分が発明した電気信号を用いて、電報の送信に成功したのは彼が53歳の時でした。
戦時中の経験から生まれたアンパンマン
アンパンマンがヒットしたのは、作者のやなせたかしが69歳の時でした。
最初のキャリアは、制作会社でグラフィックデザイナーとして勤務していましたが、日中戦争が拡大し、やなせも中国へ派兵されることに。
この経験がアンパンマンのキャラクターを生むきっかけになりました。
やなせは当時の経験をこう語っています。
飢えるってことが一番つらいことなんだと、その時、身にしみて体験しました。ですから、もし正義の味方だったならば、最初にやらなくちゃいけないことは、飢える人を助けることなんじゃないかと思ったんです。
引用:何のために生まれてきたの? 希望のありか
アンパンマンのヒットまでに、やなせは雑誌の記者、構成作家、舞台美術として様々な仕事をしていました。
やなせ自身は様々な仕事をしつつも、自分の本職を漫画家と定義していたようです。
僕の本職は漫画家なんです。
引用:何のために生まれてきたの? 希望のありか
地道に活動を続け、やなせの代表作「アンパンマン」が世に誕生し、多くの人に広まったのは69歳の時でした。
やりたい事がなくても、大丈夫
今回は遅咲きと呼ばれる方々の経験をまとめました。
本記事を担当した私も好きだな、向いているかもな、と思った仕事を始めたのは30歳の時です。20代はあまり関係ない仕事をして来ましたが、現在の職業に辿り着きました。
そこから偶然も起き、過去の経験が現在の業務に役立ったりもしています。
「やりたい事がない自分」を責めたり、焦らなくても大丈夫じゃないでしょうか。
もちろん、あった方がいいかもしれませんが、なくても構わないし無理に作る必要もないと思います。
何かに出会うタイミングはいつだって突然ですし、試行錯誤の上、天職に巡り合った方が数多くいらっしゃいます。
最後にやなせたかしさんの言葉で本記事を締めくくりたいと思います。
僕はもっと若い頃に世に出たかったんです。
ただ遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません。こんなことをしていいのかと思っていたことが、みんな勉強になり、役に立っていく。人生にムダなことなんで一つもないんですよ。
引用:何のために生まれてきたの? 希望のありか
もし記事を読んで心に残るものがあれば、感想をSNSで教えていただけると嬉しいです。
・「やりたい事がないといけない」風潮に息苦しさを感じている方
・30代を過ぎて、楽しいと思える仕事に出会った方
・そもそも人生や仕事に「やりたい事」を求めていない方
様々な感想お待ちしています!
参考書籍
文・編集/佐藤政也 アートディレクション/熊谷怜史 協力/中原まさひろ
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