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身体性と社会性、そして時間・自然。

2023。
今年は子ども達との関わりで見えてきた事をさらに深めていきたいと思います。

深めていく事は身体性と社会性です。

子どもの発達において重要なポイントはミクロで言えばもちろん身体性、マクロで言えば社会性です。子ども達と関わるという事はまさにそれらと多面的に触れ合う事象としてはドンピシャです。

身体性で得た経験と記憶はもちろん生きていく上で大事な器となりますが、「社会を知る」は社会の様々な過去と現在、未来の往来があり、それらが集合となって全体性となります。そうすると我々は子どもにとってその器に何かを注ぐ者、すなわち影響者です。

「こんなしないと〇〇だよ。」「〇〇したらダメだよ。」「〇〇するべき。」…etc。我々大人は経験をもとに転ばぬ先の杖とアドバイスしたり、自分が経験してきた事をあなたには必要だからとやらせる事があります。もちろんそれらは必要な関わりであり決してダメなわけではないのですが、(子ども達の)主体性を考えると子どもとのコミュニケーションは大事で、必要を見極めた上でバランスよく行う事が望ましい。

そんな風に関わりの細かさが求められる中、それがいいと分かりつつも結局大人も子どもも時間に追われています。

もしかすると多くの場合、子ども達は発達特性が際立ってある無しに関わらず、大人達の言葉だけしか受け取っておらず(あるいは言葉だけで大人と反応しあう)、そんな中で身体性という器の形成不全は並行して起こり「(我々が伝えたいであろう)生き方の本質を体感していない」だからこそ言葉が伝わるはずがないとも言えます。

自発的な身体性の経験も乏しいまま、社会の中での主体的な体験も制限されるとしたら…ですが!

この問題に関しては個人・家族の価値観や育ちを超えて人間社会全体としての問題がチラつく訳です。「発達障害は社会問題」なんだと薄々感じております。

「助けてもらえないかもしれない」「人を助けるって?助けられるって?」子ども達と会話するとそういった社会での葛藤に出合う事もしばしばです。ざっくり言うと助けられるがよく分からないものですから、助ける事が分からない。つまり助けられる経験が乏しい人が助ける側には回れない。自分でも乗り越えれないし(身体性)、誰も頼る事が出来ず(社会性)思考停止してしまう。我々大人もあり得る包摂的な社会の一面と自立の価値観との相対する事で起きるジレンマがそこにあります。社会学を学ぶ事は、社会で何が今まであって、何が起きてて、何が起きつつあるかが分かる事で、身体性という器に何を注ぐかを見極める重要な視点です。そしてやはり様々な面において自然は懐が深くこういった事象への処方箋となりうるのだとあらためて感じます。そしてその作業は時間を要するのだという覚悟が必要なわけです。

身体性と社会性。
そして絡み合う時間と自然。

子ども達が、誰かと助け合える存在となる未来を意図して今年は身体性を大事にしながら、社会性を学問し、まず我々大人自身が助け助けられるアクションをしていきます。

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