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1945年の仏領インドシナで日本軍下に編成された『高台(カオ・ダイ)教奉仕隊』のこと

 以前の記事で、戦前仏印サイゴンに本社があった日系商社『大南(ダイ・ナム)公司』の社長松下光廣(まつした みつひろ)氏関して記事を投稿しました。この中で度々引用した北野典夫氏著『天草海外発展史』は、題名の通り海外進出し波乱万丈の生涯を生きた天草出身者達の物語を集めて編集された本で、出版年は昭和60年です。
 この本のことは、牧久氏著『「安南王国」の夢』に書かれています。⇩ 

 2011(平成23)年2月中旬、東京は今にも雪が舞いそうな寒い日、私は光興(=松下氏の長男)とともに羽田空港を飛び立ち、天草に向った。最初に訪ねたのが天草市本渡町五和にある「天草市立天草アーカイブス」である。1999(平成11)年に発足したこのアーカイブスは、合併前の天草六市町村の公文書だけでなく、郷土誌の資料や出版物なども集めた「史料館」として、地方自治体では珍しく充実している。(中略)
(学芸員の)本多によると、「週刊みくに」は1923(大正12)年に創刊された郷土紙。…その「週刊みくに」も時代の荒波には勝てず、1995(平成7)年には廃刊に追い込まれている。
 …北野典夫の署名入りの「天草海外発展史」は、1978(昭和53)年春から始まり、…1982(昭和57)年の夏まで続く長期連載である。故郷を出て世界中で活躍した天草出身者を丹念に追っている。「独立の志士とともに――松下光広のベトナム人生」は、1981年7月17日を第一回として同年10月16日まで毎週一回、計14回にわたって連載されていた。

牧久氏著『「安南王国」の夢』より

 この本の、「独立の志士とともに――松下光広のベトナム人生」項の冒頭にある文章から、松下光廣(まつした みつひろ)氏の自伝的内容が語られた背景が分かります。⇩ 

 おだやかな話しぶりであるが、大南公司社長松下光宏翁(明治29年・1896・8月3日生)の謦咳に接していると、一語々々が、緊迫した重味となって筆者の耳朶を打つ。東京都中野区白鷺の松下邸を訪問したのは昭和53年晩秋の一日であった。以下、翁の談話と厖大な資料から。また、関係者に取材して。

北野典夫氏著『天草海外発展史 下』より

 クオン・デ候と同じく、松下氏も自身の自伝や論文などを書き遺していませんので、オタク🤓・主婦としてはいつか読みたいと思っていた『天草海外発展史』でしたが、古本サイトで欠品や価格が高額すぎたりでチャンスが無かったんですけど、先日久し振りにネット検索したら割とリーズナブルな価格で出てたので早速ゲットしました。最高です。
 またまた盛り沢山の情報が発見出来たので、追々記事をアップして行こうと思っていますが、今日は取敢えず掲題に挙げた高台(カオ・ダイ)教奉仕隊』です。
 以前、こちらの記事『ベトナム・サイゴンの婚家 ”HÀ(ハー)GIA=何(が)家”の歴史を辿るにも書いた様に、大東亜戦争中の仏領インドシナで、日本軍の援助を受けてカオ・ダイ教信者が部隊を編制しました。今日は、その詳細を纏めて置きたいと思います。😊😊 ⇩
 

 松下光広と越南復国同盟会の盟主クオン・デ公との個人的交際は、実に30数年来のことであった。大正10(1921)年、文通が始まる。大正14年、日本帰国中の彼に、或る人が、「安南の志士クオン・デ公を紹介しよう。」と言ってきた。そのころ、クオン・デ公は、中国名『林順徳』と名乗り、本郷区追分町31番地の第2中華学舎内に身を潜めていた。長崎唐通詞の子孫である国士何盛三(天草町大江・何医師と同家系か?)が、影のように彼の身辺にあった。(中略)
 2人の接触が実現したのは、昭和3(1928)年のことである。

北野典夫氏著『天草海外発展史 下』より

 この様にクオン・デ候は連絡書信の中に、『現地においては、余の代行として、松下氏の指導を仰ぐように。』と書き添えていたこともあって、松下氏はベトナム人志士達から厚い信頼を得るようになります。「志を抱くベトナムの人達が、松下光広を頻繁に訪問してくるように」なったそうです。⇩ 

 ところで、クオン・デ公の存在には、サイゴンに本部を置くカオダイ(高台)教の150万~200万と称される信徒集団が、信仰に近い尊敬の気持ちを寄せていた。高台教=Caodaismeとは、1926(昭和元)年教祖レ・バン・チュンが創始した新興宗教である。(中略)
 大東亜戦争真っ盛りの昭和16(1943)年このような歴史と性格を持つカオダイ教の有力指導者チャン・カン・ビン(陳光栄)が、越南復国同盟会のチャン・バン・アン(陳文安)に同伴して、大南公司へやって来た。チャン・カン・ビンは、4千人ばかりのカオダイ教徒労働者を組織、日本軍用造船所などの仕事をしていたのだが、松下光広に訴えるのであった。
 「カオダイ教徒は、すべて、独立の志に燃えている。盟主クオン・デ公に、橋渡しをお願いしたい。」

北野典夫氏著『天草海外発展史 下』より
 

 この⇧「日本軍用造船所などの仕事」とあるのは、サイゴン市内の川沿いにあった『日南商船造船所』のこと。三井物産が資材を供給し、出来上がった船を日本軍が買い取っていたそうです。

 その後、「大東亜戦争が破局を迎えつつあった昭和20(1945)年3月9日午後6時、会長たる松下光広はじめ日本人会の幹部たちは、日本大使府から参集を求められた」と書いてあり、これは勿論仏印武力処理嗚=明(マ)号作戦』決行前の指示ですが、この時期に平行してカオ・ダイ教徒たちも動き出していました。⇩

 そのころ、カオダイ教の勢力は、祖国独立を目指して軍隊組織化を志向しつつあった。日本軍も、軍夫、または後方勤務要員として、彼等による部隊編成を考えていた。松下光広は、サイゴン駐屯第38軍(略称信部隊・司令官陸軍中将土橋勇逸)から要請を受けて、その総指揮をとることになった。大南公司社長松下光広は、一時期、36箇中隊、4千名にのぼった現地人大部隊=高台教奉仕隊の司令官に就任したのである。副司令は、カオダイ教指導者チャン・カン・ビンであった。

北野典夫氏著『天草海外発展史 下』より

 この時の『高台教奉仕隊編成依頼書』が存在します。信指令の発令者は第38軍河村参朗参謀長。⇩

北野典夫氏著『天草海外発展史 下』より

 発信日は『昭和20年7月8日』です。詳細は、以下の通り。⇩

信阪後第23号
高台教奉仕隊編成に関する件
昭和20年7月8日 信部隊参謀長 公印
  松下光広殿
首題の件 左記に準拠し、奉仕隊を編成し、軍の作戦準備に奉仕する如く指導相成度。
  左記
1,編成基準及び奉仕隊駐屯地
 1)一隊約100名とし、細部は奉仕隊に於いて定めること。
 2)駐屯地及び隊数 :チョロン 4隊、サイゴン 6隊、ザーディン 5隊、ビエンホア 2隊、タイニン 8隊、タンビン 1隊
2,奉仕隊に対する奉仕業務は、信指令所長が之を命ず。
  各駐屯軍隊の指揮官が奉仕隊を使用せんとする時は、信指令所長に対し要求するものとす。
3,奉仕隊の取り扱いに就いては、昭和20年5月4日信集参丙第133号高台教奉仕隊取扱要領に関する件に拠る。右規定に拠る担任部隊は、信指令所とす。

4,奉仕隊編成の細部、人員の異動、奉仕業務の状況等は、其の都度報告するものとす。

 この編成依頼書の日付は7月8日です。しかし、『天草海外発展史』によれば、3月9日の明号作戦で日本がフランスを追い出した後、サイゴンなど都市部ではカオ・ダイ部隊が市内の治安維持を担当したとあり。この部隊は事前に日本軍から軍事教練を受けていたのですから、松下光広氏の尽力で、「日本軍当局から、一人20ピアストル(邦貨換算約40円)の月給と、被服(現物)、米(同)副食物(現金)の支給を受けられるように」なったとあります。
 。。。多分これ⇧は、私の推論ですケド😅、、、3月9日からそれ以降もずっと、現地で手弁当で必死に治安を守っていたカオ・ダイ部隊の目的は、勿論自国の独立の為ですが、、、しかし外見的、結果的には大いに日本軍の力になり、役にたっていた訳です。

 『大日本帝国とか言って、現地部隊をちゃっかりただ働きさせてたら絶対に駄目です!』

 と、常識と人情の判る松下光広氏の様な人間がその時現地に在ったからこそ、この『奉仕隊編成依頼書』というものが、”後付け”で7月8日に発令された、、というような経緯じゃないかな、と思います。。😅😅😅
 軍の面子を保つためとか何とか、(笑)そんな所でしょう。幹部が頭でっかちでイエスマンばかりの組織なんてそんなもの。ベトナムで現地社員として長年働いたお蔭で、当時の日本官僚たちのやり取りが何となく目に浮かぶ。。(笑)😂😂😂

 因みに、上記⇧「略称信部隊・司令官陸軍中将土橋勇逸」の、現地総司令官だった土橋中将は敗戦で日本へ帰還し、戦後は御立派な回顧録を残しました。⇒『1945年3月 仏印武力処理(明号作戦)後の小磯内閣声明文そして、依頼書の発令者だった河村参謀長は、終戦直後シンガポールで戦犯として処刑されたそうです。😑😑😑😑😑😑😑😑
 なんかなぁ、、。💦💦
  
 さて、奉仕隊ですが、発令の約1カ月の後には日本の広島、長崎に原爆が落ち、日本が敗戦しました。
 これ以後のベトナムに就いては、色々な角度から書いてみた記事を挙げてありますので、宜しければご一読頂ければと思います。⇒
日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様①
Trần Trọng Kim(チャン・チョン・キム、陳仲淦)著『 Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』全文邦訳の投稿 

 因みに、私の夫のお爺さん達は、上記⇧の『タイニン 8隊』に組み込まれていたのかな~、と想像してますが、本当の詳細はあの世で聞けるかなと思っています。😊😊

 
 

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