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ベトナム独立革命家が見た-国を売り、外国の為に奔走する人々 

 「ああ、世にも不思議なのは、我がベトナム人が、今日なお枕を高くして安眠を貪り、財布の中を探って狂喜している姿でしょう」
 
 ベトナムの独立運動家だった潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ、→自伝書に『自判』(自己批判書)と題名した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)はどんな人?|何祐子|note )が書いた『海外血書』 (1906)は、冒頭からこのような嘆きの文章で始まります。

 潘佩珠は、年齢的に現在のベトナム語文字(=ローマ字化文字)が書けなかったそうですので、彼の書は全て漢語で書かれていますが、この『海外血書』も原本は漢語です。日本の横浜で借り受けた『丙午軒(ビンゴ・ヒエン)』と名付けた一軒家で1906年頃に書き上げました。日本でも、1909年頃に東京神田で秘密刊行されています。(外務省外交史料館所蔵、一番上の画像。)

 外国人に支配されながら、「安眠を貪り、財布の中を探って狂喜」したり、「他人の不幸を自分の不幸とし、その災難を見て楽し」んだり。。どうして我が民族はこんなに落ちぶれてしまったのか?と、潘佩珠は疑問を投げかけています。
 本当、なぜなんでしょう?

 「しかるに今、我がベトナム人で聡明俊秀といわれる人々は、ただこのことだけに秀でているのです。」
 ・・・要するに、「金儲け」「TVワイド・ショー(様なもの)」が大手を振ってしまってるんだよ、、、と言ってます?😵‍💫😢

 フランスの植民地だった当時のベトナムでは、⇧このような、「古来人の最も蔑んできた」行動や、「世界の何処に言っても大辱と考えられている」行為、、、それを行なっているのが、「しかるに今、我がベトナム人の中で栄誉に充ちた生活をしている人々」であり、その為に、世俗の通念が「実はこのことよってのみその誉れが高い」ようなことになってしまっているのだ、と嘆いています。
 どうして、そんな善悪逆さまな社会になってしまったのでしょうか?

 「フランス人は初めベトナムを取った時には甘言好餌で誘惑し、高位厚俸で釣ろうとした」    
 高位と金銭で釣られたベトナム人らが国内の高位官僚として存在し、フランス人の猟犬となり、外国人の手先として、ベトナム民衆を直接管理し苦しめた張本人だというのです。

 「ベトナムの中でも豚にも劣る無道非行のごろつきどもは、ベトナム人はもとより歯牙にもかけないのだが、フランス人の方は彼らをごく重宝している。例えば、何某のごときは、もとは一通訳の身が総督協辯にまでなった。他にもXXに、OO、皆フランスの暴虐を助けた連中である。」

 外国人に媚びを売って、自国人を苦しめて出世を果たすとか。。。人間として完全に終わってますよねぇ。。。😵‍💫 それなのに、「ベトナムの中でも豚にも劣る無道非行のごろつきども」と形容される人達が「高級官僚」だと言うのなら、そりゃあ社会が腐敗し、モラル低下が起こる。
 当然ですよね。

 ベトナム独立革命運動史関連の書物で、「フランスの走狗」「外国人の猟犬」「国賊」等々、、惜しみない侮蔑の形容句を冠された、ベトナム人なのに外国勢力に加担し自国民を搾取、支配した高位官僚(その下には無数の密偵)の中でも、何度も何度もその名前が登場し、最も悪名高く、代表的な人物が2人います。それが、「阮紳(グエン・タン)」と「阮文祥(グエン・バン・トゥォン」です。

 阮文祥(グエン・バン・トゥォン)は、第4代嗣徳(トゥ・ドック)帝(在位期間1847-1883)の時の大臣でした。この頃は、正に丁度『内憂外患』とも言える時代で、国内北部では、黎皇朝の後胤を名乗る党が頻繁に反乱を起こし、国外からは太平天国の残党が流れ込んで来ては、ベトナム北部で乱暴狼藉を働いていました。
 1858年、フランスとスペインの仏西連合艦隊軍14隻がダナン沖に現れ、ダナン港の防塁へ砲撃を開始、軍隊が上陸します。
 翌年、仏西軍隊は南部へ移動してカンザー(Cần Giờ )から侵入し、ドンナイ(Đồng Nai)川両脇の浮塁を破壊しながら嘉定(ザ・ディン=現在のホーチミン市内)に上陸。嘉定城が占領され、続けて1861年、守油茂(トゥ・ヤウ・モット=現在のビンズゥン省辺)、西寧(タイ・ニン)省、美湫(ミ・トー)、辺和(ビエン・ホア)省も続々と占領されてしまいましたので、遂にフエ朝廷は仏西連合軍に対して講和条約を申し込んだのです。これが、1862年のボナール条約です。
 
 講和を申し込んで不利な立場に置かれてしまったフエ朝廷でしたが、ここで政府官僚、国民、一丸となって国を守るべく行動すれば良かったのでしょうけど、残念ながら、いつの時代、どの場所にも、いるんですねぇ、、😵‍💫😵‍💫何か非常な勘違いをして、これは下剋上の出世チャンス到来だと、平気で自国と自国民を外国へ売る人物が。💦💦
 それが、阮文祥(グエン・バン・トゥン)でした。

 ベトナム人の歴史家、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の著書『越南史略』(こちら→ ベトナム語の歴史本『越南史略』|何祐子|note)の中で、第7代咸宜(ハム・ギ)帝の詔勅を奉じた義民による抗仏蜂起(1885)の場面があります。
 「清国と天津条約を締結したフランスのド・クルシィ(De Courcy)統将は、咸宜帝に謁見するためフエにやって来た。仏軍歓待式が終わりに近づいた頃、城内に発砲音が鳴り響き、周辺に火が放たれた。阮文祥は、咸宜帝と太后らを御車で都落ちさせ、自分はフエに残ったが、自国の体制不利を悟り、早々と翌朝の昼にはフランス軍へ投降して、その後フランス軍へ仕官した。」

 と、⇧このような説明があるのですが、この前後の詳細が、潘佩珠著の『ベトナム亡国史』に書かれています。
 「フエが陥落した時(1885年の戦のこと)などは、阮文祥は、実にフランス軍の手引きをして町へ導き入れたのである。阮福説(グエン・フク・トゥェット、当時の輔政大臣)は兵を出して敵を迎え撃ち、使いをやって阮文祥に救援の軍を依頼した。ところが、文祥は逆にフランス側に通じ、味方への弾薬の補給を絶ってしまったので、町は遂に陥落した。」
 
 ですからこれは、元々から阮文祥の計画的な行動だったのでしょう。
 「人の意を迎え表面を飾るのに巧み(な阮文祥は)、うまく帝の心を捉え、かねがね王位を奪う野心を抱いていた。(中略)もっぱら賄賂を使ってフランス人と結びつき、ベトナム側の国家機密をフランスに漏らしていた。」
 そして、フエ皇室内部に対しても工作していました。
 「国内にはまた范(ファム)太后がいた。彼女は愚かな上に貧欲であり、(第3代皇帝の)嗣徳帝の生母であったが、国政に嘴を入れ、嗣徳帝もまた、ことごとに母に伺いをたててから事を行うという状態」
 ここへ以て来て、阮文祥は、
 「フランスからもらった多額の賄賂で、范太后の心を取り結んでいた」
 といいます。その結果は、
 「愚かな女とよこしまな臣とが国政の表と裏で権力をもてあそび、国政をくつがえし、誠実な人たちを陥れ、ある者は刀を袋に収め、またある者は地位を奪われて郷里に帰った」
 というのです。。。 何といいますか、『歴史あるある』過ぎる展開です。😅

 ここで、明らかに浮き上がって来ますのは、やはりあちこちの背後で動いている「お金」の存在ですよね。北部の反乱賊への「軍資金」、太平残党への「軍資金」、阮文祥への好餌「金(と地位)」、范太后への賄賂「金(と地位)」。結局、この「お金」はどこから??と考えますと、結局全部西洋の方から海を越えてやって来ていた訳ですから、この頃ベトナムに偶然「内憂外患が起こった」のではなく、時機を得て「内憂外患が起こされた」が、正しいと思います。
 日本もー-、昨今気を付けたいところです。。。💦💦💦

 フランスの甘言に乗り自国を陥れ、西洋人に取っては素晴らしい働きをした阮文祥は、当然の権利として自分を「ベトナムの王に封じる」ようにフランスへ要求します。しかし、フランスの答えは、
 「生かしておいて後の患いとなることを恐れて、彼を海へ連れ出して殺し、屍体を海に沈めて、空っぽの鉄の棺桶を持ち帰り、文祥の家族に十万元の金であがなわせた」そうです。

 こ、怖いですね。。「裏切り者は必ず裏切る」ことを西洋人は忘れないようです。潘佩珠は、此のことをこう結論しています。
 「虎の部屋へ入るものは虎の餌食となる。虎の威を借りて威勢をふるう者は、賊臣阮文祥をそのみせしめとするがよい」

 そしてつぎは、国賊中の国賊だとベトナム独立運動家たちに蛇蝎の如くに憎まれた、「阮紳(グエン・タン)」です。
 この阮紳は、書籍の中に本当によく名前が出て来るので、私も親近感すら湧く位すっかりお馴染みになりました。

 「法奴(フランス人の走狗)となったベトナム人の中で、その手段が最も悪賢く、フランス人への貢献度が最も高く、フランス人に最高に頼られ、我が同胞を最も残酷に殺した者は、阮紳(グエン・タン)の右に出るもの無し。」             『越南義烈史』より

 フエ王朝の忠臣、潘廷逢(ファン・ディン・フン)の義党が襲われた時は、
 「広義(クアン・ガイ)の国賊、阮紳がフランスの猟犬となり、数千人の配下の精兵を率いて、数千人のフランス兵と2手に分かれて進撃して来た。」
 けれど、潘廷逢は病がたたり世を去っていました。長年の恨みを晴らそうと、屍体を墓から堀り出し、油を掛け焼き払って灰でさえも集めて撒き散らしてしまったフランス側の人間が、阮紳(グエン・タン)でした。
 義人、阮誠(グエン・タイン、こちら→ ベトナム志士義人伝シリーズ② ~阮誠(グエン・タイン、Nguyễn Thành)~|何祐子|note)を捕まえたのもこの阮紳(グエン・タン)です。これ以外も、悪業の数々は列挙しきれない程です。
 こんな彼らとフランスは、どんな関係にあったのでしょうか?

 「フランスは、色々な悪虐を行なう際に、まずこの輩に自分たちの意向を伝え、東が欲しければそそのかして東に走らせ、二氏が欲しければそそのかして西に走らせ、この手先たちは休むひまもなくあちこち走り廻り、フランスは座したままでうまい汁を吸い取る。」
 「初めはうまいことを言い、やさしい顔をして忠実な犬に仕立て上げ、彼らに取ってこさせた獲物のうち、余り物をくれてやる。そして、犬たちの取り分がいっぱいになる頃を見計らって、それをまとめてさらってしまう。」
 ですから、結局彼らは、
 「フランスの奴らのための貯金箱」
 だと、潘佩珠は言います。また、
 「自分達自身のために人民から無理やり搾り取った膏血が、年月がたつにつれて積もり積もったと知るや、フランス人は、毛を吹いて疵を求めるようなやり方で、落ち度を見つけ出し、容赦なく刑罰を加えた上、この数十年臭い皮を着て来た(=出世のために悪役を引き受けて来た)連中の身柄を、謹んでベトナム検察官に引き渡してしまった。そして、財産はすべてフランスが奪い去り、汚名はすべてこの犬どもが背負い込むのである。」

 必ずそうなることが判りきっているのに、人間とは懲りない生き物だ。「下男同然にあしらわれ、婢女のように扱われ」た後に切り捨てられておしまい。彼らの殆どはただ「目先が暗く、愚かで、今やっと目が覚めて悔いているが、全て後の祭り」だ、と言っています。

 しかしですね、フランスに最も気に入られ、ベトナム土民取り締まりの最高幹部として君臨した阮紳(グエン・タン)は、全然「目先が暗く、愚か」な人物ではなかったのです。
 「彼は、先祖から代々ベトナムの国恩を受け、父親はベトナム国の伯爵であった。彼は名門の子として学問にも通じ、事を論じても、実に委細にわたって耳を傾けるに足るのである。」
 
 「物売りの奴隷、家畜殺しといったごく貧しい賤しい者どもでも、一点の良心は持ち合わせ」
ていて、外国人が自国民を痛めつけることに我慢できないでいるというのに、いわんや、阮紳は、奴隷、貧賤の身分ではない。
 「仮に気が狂ったとしても、ベトナムの国を全く忘れはて、目前の富貴と引き替えに、後世までの悪名を購う事は、彼らの本意ではさらさらないであろう」  
 そうであるにも拘わらず、
 「同胞でありながら、同胞を愛さず、同胞の苦しみにも平然としている。それどころか、異国人のために刀をとって自らの同胞を殺さねばやまぬ。これは、いったいどういう心情なのだろうか」
 と、理解に苦しむと潘佩珠は言っています。

  彼は、誰の眼から見ても「今ではもちろんフランスの下僕」。しかし、「フランスの下僕という名で呼べば、断乎としてそれを拒否するだろう」と言います。要するにその自覚が当の本人には全然無いのだ、と言うのです。

 これが、事を複雑にするのかも知れません。人の心の奥底にある功名心とか出世欲が、「自国の開明化の為」という大義名分を被せると、容易に外国資本を受け入れたり、自国民をガチガチ支配しようとする心理に発展するのでしょうか。。。誰でも、今あるポジションや俸給を失うのは怖いものです。更に、目の前に空いたポジションと更なる高給に首を振ることは難しいのです。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、著書の中でこう言います。
 「フランス人に愛顧され庇護されたとて、彼にとって何になるというのであろう。」
 そして、
 「元々智略もあり、学識も深いこの様な人物が、時勢にかられて道を踏み誤ったのかも知れないし、あるいは何らかの紆余曲折があって、今は機会の来るのを待っているのかも知れない」
 もし、「学識が深ければ、その過ちを改めるのに必ず勇であるはずであり、いつの日か、翻然とその方向を変え、決然として正道に立ち帰ったならば」、雲雨はにわかに来たり、驚天動地、我々の力はフランス人より悠々と上回るであろう。」
 そうであるなら、「まさにベトナムの国運は、(今は大国賊の)これら人物にこそ託されている。人民は、正にこれら人物にこそ頼れるのである」、とさえ言うのです。

 もし、そうはせずに、ただ強権家の下で強きを助け、弱きを挫き、無自覚に、直接間接に自国民を苦しめ続ければ、一体どんな将来が待っているのでしょうか。 

 「もしも逆に、阮紳がその祖先父母からフランスに生まれついた人間だったとすれば、やはり異国人の手助けをしてフランスに禍いをもたらすようにならないとは、フランス人は保証できるだろうか。」 
 「今日ベトナムに背き、広義を忘れて、異邦人であるフランス人を助けるような人間は、いつの日か必ず、フランス人に背き、飼い主を忘れて、フランスを攻める別な国の人間を助けるに違いない。」

 
そんなことはフランスは百もお見通しですから、
 「朝の恩を夕べには仇でかえし、すぐに寝返りを打つ阮紳を信用すれば、阮紳はフランスの恩に報いることもあるだろう、」
 「しかし、フランスも決してそんなに愚かではない。そんなに容易く欺かれはしない。彼らは決してこの、祖国を忘れて異民族をあがめる阮紳を心から信用しているのではないのだ。」 
 「この阮紳こそ、まことに危ういと言わねばなるまい」

 智略もあり、学識も深い人間が、フランスの本性を知らぬはずがない。
 
しかし何故に、歴史の中で繰り返されて来た事象に対し、「自分だけは大丈夫」だと思い込もうとするのか? 
 
 「兎が死ねば犬は煮られ、鳥がいなくなれば弓はしまわれる」

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 以上、ベトナム独立運動家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の遺してくれた書籍から、仏領インドシナ当時の国賊として現在に至るまで、後世に汚名と悪名が残されてしまったベトナム人の高位官僚のことを取り上げてみました。
 100年経っても、こうして語り継がれてしまうんですから、自国民が苦しむ事を知りながら、外国人と一緒に金儲けしちゃうとか、出世しちゃうとか、、、やはり、止めて置いた方が無難ですよねぇ。。。
 だって、100年後も語られ続けるなんて、かなり恥ずかしいですよね。
 

 
 
 
 

  

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

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