満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』① ~民族略史~

 戦前日本にあった南満州鉄道株式会社-その付属機関『満鉄東亜経済調査局』クオン・デ候と懇意だった大川周明(おおかわ しゅうめい)先生も、1921年から局長を務めました。

 この東亜経済調査局が、昭和16(1941)年に発行した『南洋叢書 改訂仏領印度支那(インドシナ)篇』という本があります。非常にハイレベルな内容でして、その中の『フランスのインドシナ征略史』ベトナムに関する部分だけを数回に分けてご紹介したいと思います。
『仏印=仏領インドシナ連邦』の概略はこちらから⇒仏領インドシナ連邦の基本情報

 
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 一、民族略史

 安南(あんなん=ベトナム)人は北部より移住せるモンゴル族が土着民と混血したものと云われているが、その移住期は尚お未だ詳かでない。唯開国説話、伝説等より考えて、恐らくは漢民族発生期と略々同じ頃ではないかと推定し得るに過ぎない。

 安南人の名が史上に現れたのは、紀元前214年の秦始皇帝の所謂南越征略以後のことに属する。次いで紀元前111年には漢武帝の征略に遭い、之が支配下に置かれ、同時に支那文明が移入された。

 その居住地帯は現東京(トンキン)及中部安南(アンナン)に及び、当時は越南(Viet Nam)又は南越(Nam Viet)と呼ばれていた。安南と呼ばれるに至ったのは紀元264年以降で、「南は靖し」即ち支那の勢力が全くなくなったことを意味する。
 さて漢武帝に征略された越南には、その後紀元40年に「安南のジャンヌ・ダルク」と称される地方豪族の娘、
徴側(チュン・チュック)・徴貳(チュン・ニ)の乱、541年季賁の乱、更に939年には呉權(ゴ・クエン)の乱等の独立運動が行われたが何れもより強力なる支那遠征軍の討伐に敗れ、その属国たるの運命に置かれていた。

 然し1428年明の宜宗の時、黎利(レ・ロイ)なる英雄現れて明の勢力を徹底的に駆逐し去り、ここに初めて名実ともに備われる独立王国、安南王国を形成するに至った。次いで安南は南部に矛を向け、当時南部安南を占めるチャンパ王国(占城、占婆、林邑と書く)を侵し、1714年遂に之を征略し、その版図は現東京(トンキン)、安南(アンナン)、交趾支那(コーチシナ)に及び、大安南王国時代を現出した。勢威正に旭日昇天の感ある安南は、更に余力を西に伸ばさんとし、ここにカンボジア王国と衝突するに至ったのである。
 さてカンボジア王国とは、別名真臘(しんろう)、吉蔑、甘孛智、甘蔗という。最初紀元3世紀頃建設された印度文化の扶南王国(Founan)の一領であったが、紀元615年之を倒して独立王国を建設した。8世紀には馬來(マレー)人に征服されたが、802年ジャヤバルマン2世(Jayavarman Ⅱ)は馬來人を駆逐して再び独立を獲得、之より内治に外征に著しい発展を続け、1000年頃にはその勢威は馬來半島に及んだと云う。歴代の諸王はその英名を不朽に残すべく、国内到るところに壮麗なる寺院を建設した。その中最も著名なるものはアンコール・ワット(Angkor Vat)である。印度文化の最高潮を表徴すると云われ、その建築の豪壮、彫刻の華麗さは爪哇(ジャワ)のボルブドールのそれを凌駕している。

 然し盛者必衰の理に漏れず、やがてカンボジアも衰頽の途を辿るに至った。外征、建築の過剰に伴う国力の疲弊、北部に於けるラオス人、西部よりの安南人の侵入に基因する。
 カンボジアの没落を速めたラオスは、1353年プラヤー・ファ・ガムに建国されたが、18世紀に至りルアンブラバンとヴァアンチアーヌの2王国に分裂した。この機を利し勢力を拡大せんとするタイと更に版図を拡張せんとする安南は、ラオスを舞台として凄惨なる攻防戦を展開したが、地理的に接近するタイは安南の勢力を斥け、ラオスに宗主権を確立し得た。

 以上が18世紀に至るインドシナの略史である。カンボジアを巡る安南とラオスの闘争、次いでラオスを中心とする安南、タイの戦いは、結局互いの国力を疲弊せしめ、フランスの侵略を容易ならしめたのである。

 インドシナを構成する3大種族即ち安南人、カンボジア人及びラオス人が、互いにそれぞれ異なる血統、歴史、文化を有つが故に外敵の侵入に対し結合し得なかった点に、インドシナの複雑性があり、悲劇の禍因が存したのである。前述せし如きインドシナの弱点は、早晩東洋制覇を夢見る西欧諸国の餌食たるを免れ得なかったであろうが、安南王国の内乱はその時期を促進せしめたということが出来よう。

 フランスの安南征略、更に印度支那(インドシナ)征服の経過を述べるに先立ち、歴史を少しく戻し西欧諸国のインドシナ進出時代から筆を進めてゆくこととする。

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 上記⇧の、「カンボジアを巡る安南とラオスの闘争、次いでラオスを中心とする安南、タイの戦い」の部分は、クオン・デ候が最後にベトナム帰国を試みた1950年に発表した『帰国声明文』(⇒ベトナム王国皇子クオン・デ候 最期の帰国声明文 『全越南国民に告ぐ) に言及が見られます。

 元々民族・覇権的な諍いのあったところに、フランスがベトナム・ラオス・カンボジアを植民地にして以来タイ国境線を侵し続けたため、『タイー仏印国境紛争』が勃発してました。しかし、1940年頃からこの和解調停を申し出たのが、当時の我が日本政府だったのです。
 この時は、1941年-第2次近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣松岡洋右(まつおか ようすけ)外務大臣の時。😊😊

 当時の日本政府は、タイ政府とフランス(仏印)政府の絶大な信頼を得て、見事『タイ仏印国境紛争調停成立』を為し遂げ、これは当時世界的大ニュースになりました。
 『紛争から対話へ』-この理想を世界に示した平和国家が戦前までの日本だったのです。。。。
 嗚呼、それなのに…戦後の日本政府ときたら…、アメリカのポチになり果て、言われるがまま戦争継続へ追加支援とか、お門違いの経済制裁とか…、本当にダサくてかっこ悪るぅ。😭😭 
 
 戦前の華々しい日本皇道外交の成果は、戦後の戦勝国メディアにガン無視されたせいで、『タイ仏印国境紛争調停』などの史実は全くマイナーですね。そして、『日本外交がカッコイイ時期=戦勝国メディアが無視する時期』が、丁度『ベトナム抗仏革命史の重要期』と丸被りしてるので、ベトナム史も一緒にマイナー街道を歩き続けてます。悔しいーー。(笑)😑😑

 それはさて置き、次回からは『仏蘭西(フランス)のインドシナ征略史』をこのような順で投稿しようと思います。⇩

 1,葡萄牙(ポルトガル)人先駆時代
 2,フランスの進出
 3,安南の内乱より統一までのフランスの勢力扶植
 4,安南王国の反仏時代
 5,フランスのインドシナ征略

 『初期の植民政策』
 1,第一期(1885ー1895年)
 2,第二期(1897ー1902年)
 3,第三期(1902年以後)

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